イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

言葉!

2009-01-16 | 第三章「無意識の世界」

 言葉の起源は、現世人類誕生以前どころか、数百万年前以前に遡れるかもしれないと、昨晩のNHKの番組で知った。雑音のように感じたジュウシマツの囀りも親の代から子の代に、文化のように受け継がれるパターンがあるという。

 ヨハネ福音書の最初に出てくる次の有名な一節がある。「はじめに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。」(日本聖書協会 新共同訳)

 最近、脳科学の本を読んでいる為もあり、言葉の起源や仕組みに関しては、ますます興味が湧いてくる。

 さて、昨日、信じることについてブログを書いたところ、信の字は人と言葉から成り立つとAさんから御教えいただいた。

 確かに、自己と他者とのつながりで途轍もなく重要な働きをするのは言葉なのだろう。そして、カール・ロジャースの発案した、心の健康度を測ったりする7つの尺度の中にも、第4番目に<自己の伝達>が出てくる。

 自分の、奥深いところの本音を伝えることで、自分も成長し、周りも明るくなる。

 それが無いのが底辺のレベルで、中辺では伝達が増大し、高辺のレベルは、豊な自己意識が望むままに伝達される。という。また、底辺から高辺に上向いてくるのは健全だとも言われる。

 昔の米国のホームドラマのように、奥さんに「愛しているよ」としょっちゅう言い続けるのも、米国の文化では健全なのかもしれないし、源氏物語の世界のように、好きな相手にポツリと和歌を送る流儀もあるかもしれない。

 いずれにしても、豊な自己意識の伝達は、日常では大切だ。自分を上手に語る訓練は、自分の場合生涯の課題の一つである。

<対人関係4/8>

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尚、いつも参考にしていますが、今回は「生き甲斐の心理学」p41を参照させていただきました。


人を信じること!

2009-01-15 | 第三章「無意識の世界」

 自分を認識する感覚というのは、いつの間にか五感や体感を通して身につくものらしい。

 例えば、今パソコンに向かって文章を書いているが、視覚や触覚、聴覚、を通してキーボードで文字を打ったり、時に手を顎に当てて、手と顎の触覚や内部感覚を同時に味わったりで自分の感覚を確かめることができる。

 そこには、他者と違う、自分という独自の認識が掴める。しかし、自分以外の他者(人やモノ)は良く考えてみると、自分を認識するように掴めない。増してや、どのような生育史があって、どのように思考するかなどは自分と比べれば殆ど掴めないものだ。

 勿論、自分と他者の間にひと括りに深い溝を想定するのではなく、心理的は知覚の一部が分化していくという現象もあり、愛する家族やモノでも愛車などは、自分の一部のよう感覚さえ持つこともできる。

 しかし、所詮他者は自分と異なる。例えば、若い頃妻と結婚を決定したときなど、他者(妻)の本心にドキドキしたものだが、自分と他者が違うという現実は結婚したから変わるものでもない。

 本質的には遥か彼方の他者に対する接し方で大切なのは何だろうか。57年の拙い人生経験と「生き甲斐の心理学」の学びから、判るのは信じることの重要性であろう。

 相手を信じると、自分のこころの流れが豊になり、時に不安になったり怒ったりしても、明るい感情に包まれることが多い。しかし、信じないと、そうは行かない。信じるか否かで、思考・感情・行動も変わってしまう。

 私もかつて営業マンであったが、自分や会社を信じてくれなければ、いくら完璧な理屈で説得しようとしても、営業などとてもできない。

 そして、自分も相手も、身体と生育史からなる心だけでなく、魂(愛そのものと考えてみる)を持っていると考えると、信じる力が湧いてくる。人間観に磨きを掛けることも大切なようだ。

<対人関係3/8>

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情動の真実!

2009-01-14 | 第三章「無意識の世界」

 情動とは何だろうかと、最近考える。

 情動は場合により、自分の意志でコントロールできないほど強い。あるいは、意識しないで湧きあがることもある。

 中学生2年の時、休憩時間に担任の先生から職員室に呼び出されたことがあった。それは、私が昼食時に弁当を食べ、海老の尻尾を人に投げたということをある人が証言したからだそうだ。全く根も葉もない話で与り知らぬことであった。

 担任の先生は、女性の数学教師であり、厳しくて有名であった。そして追及が厳しかった。身の潔白を信じてくれなかった悔しさで、当時の私は不覚ながら声を上げて泣き出してしまった(純情だった(笑))。

 その結果、担任の先生は不思議に私を信じ、それで終わりとなった。男が泣くのは恥ずかしい、という時代であったが、激しい情動が人を動かしたようであった。先生から観れば、私の言葉(客観的には正しいか嘘が不明)と本音(くやし涙)が一致していると直感したのだろう。今から思えば、そんなところだったと思う。

 その後、その先生を特に憎むこともなく、また、数学も嫌いにならなかった。関係はより良くなったようだ。

 情動は、40億年を生き延びてきた生命力を背景に、意志とは関係なく、目的志向的に働き、特定の行動を促進する。

 情動は感情を伴うものだろうが、その感情を本人が認識するかは別なようだ。感情を認識すること。そしてその意味を問う余裕。それが成熟した行動を産むと思う。

 今の自分は中学生のころの自分とどう違っているのだろう。いろいろ考えてしまう。

<対人関係2/8>

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超高級車もあれば・・・

2009-01-13 | 第三章「無意識の世界」

 以前米国に出張に行き、同僚の米国人の車で移動したことがある。その時の車は、本当に下駄ばき風で、掃除など全くせず、車の床には土が溜まり、雑草が生えていた。動くのが不思議な感じであった。今でも、その強烈な記憶は、優しくしてくれたその方の暖かさとともにある。

 日本人は、正月には車を念いりに掃除したりし、走る応接間といった感じのする車も多い。そして、今年の正月には、知人に超高級車に乗せてもらうチャンスがあった。

 私は、生活で経済的に乗れればという位で、殆ど高級車への関心は無い。しかし、乗ってみると確かに凄い。そして、価格を聞いて唖然とする。

 以前、福祉車両の運行管理の仕事をした関係もあり、車好きの方々と話し合うチャンスも多かった。人それぞれ、車への想いや価値観は本当に違う。

 車というモノは、ある意味で単純であるが、人間の場合はもっと複雑だと思う。身体という物理的属性だけでなく、生育史をもった心と魂(人間の尊厳の核でもある)がある。

 悩みの相談では、対人関係は一大ジャンルのようである。自分のことを考えても、夫婦、親子、職場、同志、友人等、対人関係があり、時には悩むこともあったし、これからもあるだろう。

 自己肯定・他者肯定といった世界にいれば幸せだが、ちょっとのことで他者否定や自己否定の世界に行ってしまう。原因は、お互いの愛の原型(幼い時から若い時までに、生活上での愛し愛された場面ひとつづつをいい、それが現在のノウハウとなっている。)が違うということも大きいと、最近は思う。

 人それぞれの、愛の原型の多様性を大らかに受け入れ意識し、互いに成長していければと思うが、現実は理論どうりに行かない。

 ここでは、心の流れを引き続き考えつつ、対人関係を考えていきたい。

<対人関係 1/8>

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人の月の解釈、月の人の解釈!

2009-01-12 | 第三章「無意識の世界」

 昨晩、月が美しかった。夕方、東の空に雲とビルの間から昇ってくる月は、真ん丸で豊であった。

 夜がふけてから、駅を降りてからの帰宅の寒々とした道のりでは、真上近くに煌々と輝く満月が見えた。美しいが、厳しい感じがした。

 月を見て、古今東西の人々は様々な解釈をする。ウサギの餅つきは有名だが、世界各地では、カニとかヒキガエル、ワニ、女、・・様々に違って解釈されてるらしい。

 月を見て和む文化もあれば、怖がる文化もあるようだ。

 月を見て、阿倍仲麻呂は、遠く中国から故郷を照らす月を想ったり、天文学者は殆ど大気の無い死の世界を想ったり、気象学者は月の重力と潮を考えたりする。知識や置かれている立場によっても解釈は違う。

 同じ人が同じ月を見ても、その時どきで微妙に解釈や感情が違う。そして、湧きあがる感情も微妙に違う。自分の生育史上の月を想っても、平安を感じたり、怖いと感じたり、和んだり、空しく感じたり、暖かく感じたり様々である。

 月が人のように、意志を持ち感情をもっていたらと想像する。同じ自分(月)が、様々に解釈され、感情を露わにしてくる人々をどう思うのだろうか。

 人間のもつ、限界を寂しく想われるかもしれない。人は狭い生育史に縛られていると嘆くかもしれない。

 あるいは、ひとり一人にとっては真実の解釈や感情を深く理解し、その多様性を愛し、優しく想いやってくれるかもしれない。 

 私にとってのお月さま。後者の優しいお月さまであって欲しい。

<心の流れ4/4>

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