イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ケンカや戦争をなるべく回避する習慣!(縄文スイッチ ② 2/10)

2014-12-21 | 第一章「意識と知覚」

 世の中にはケンカをしなければならないことも残念ながらあるが、人間関係や社会が過度にケンカぱやくなるのは如何なもんだろうか?生き甲斐の心理学を学んでいくと、心のケアをするための6条件とか、心の健康状態を確認するプロセススケールで、とても大切なことを学ぶ。これは心理療法家とか専門家だけが知ってればよいことではなく一般市民が誰でも知るべきことだと思う。

 このブログでも今までも書いたことがあるが、相手のこころの状態・健康度を気にすると同時に、自分のこころの状態・健康度も気にすることだと思う。とかく、真剣な議論とかして熱くなると、その方に気を取られ、理屈を追ったりしがちだが、こころの健康度推し量る大切さに気付けば随分違う。そして、例えば自分のほうが不安的だと感じたら、いったん頭をひやすために場をあらためたり・・・相手の場合が不安定な時は、話題を変えて相手をケアするなど。

 心の健康度を測るのは、昨日の感情の意味など7つの視点があるが、心が安定しているかどうか(静かという意味ではない)がポイントになる。そして訓練していくことでうまくなっていく。

 さて、縄文スイッチが今日はずっと入っているが(笑)、10000年以上つづいた縄文時代には戦争がなかったということが気にかかっていたが、昨晩、ちょっとした買い物のついでに立ち寄った古本屋さんで「遺跡が語る日本人のくらし」(岩波ジュニア新書234)(佐原真著)を見つけてしまった。そして、この本の中で丁寧に戦争がなかった理由を答えてくれている。さらに他の文化(弥生文化、中国やヨーロッパなど国際的新石器文化)との年表比較まであって実に頭が整理され感動した(ネットを昨日随分探したがなかった)。佐原さんに感謝だ。

 人とひとが個人的な恨みとかで殺人をするということは、どんな時代でもあったらしいが、社会的に集団と集団が殺戮しあうことは、農耕文化と大きく関係があり、西アジアで9500年のヨルダン渓谷のイェリコ村が最初のようで(洪水という説があり8000年~7000年前に時代が下るという説も)、それが世界に広がっていったようだ。

 戦争する文化かどうかを遺跡から推察するのは、①村に防御のための濠などの遺跡がある。②専門に人を殺すための武器がある(殺傷能力の高い重量のある鏃) ③お墓から傷つけられた遺体がでてくる ④武器がお墓に添えられる ⑤武器・武力の崇拝 がチェックポイントのようだ。そして、なんと縄文文化は16000年くらい前に出現するが(炭素年代法が普及していなかったころの佐原さんの著作では12000年前)、弥生時代(九州では2900年くらい、南関東では2300年くらい前)までの10000年以上戦争が無かった。

 戦争のある文化は、富の集中があり文字があり、身分があり・・・そんな特徴があるようだが、縄文時代は自然との共生になじむ宗教、今でも通用するような技術(土器のセラミック技術、ヒスイに穴をあけるなどの穿孔技術、ひょっとしたらカキの養殖?、木造技術・・・・)などもあり、世界と比べると極めて独自性のある文化だったようだ。

 人と人がケンカを回避するのは、先にあげたP/Sもあるが、本質的には人間観・宗教・哲学が大事だ。そして、社会的なレベルでの戦争ということを考えると、やはり哲学とか宗教の領域が重要なことが判る。地球も今は戦争に満ちているが一昔前の9500年前までは、世界的に戦争がないのは当たり前だった。縄文の宗教の研究はとても大事だと思う。

縄文スイッチ ② 2/10

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湧き起こるヘンな感情を握りつぶすのは良いか悪いか?(縄文スイッチ ② 1/10)

2014-12-20 | 第一章「意識と知覚」

 今日の「マッサン」は、鴨居社長と息子さんの和解をはじめ、懸案事項がいろいろ解決する内容だったが、私は生き甲斐の心理学の学徒でもあるので、社長の感情の流れや表出とか息子さんの感情の流れが気になってしまう。以前は感情が表出されないというか、まあプロセススケールの低の状態だったのに、湧きあがる感情に同期して、打てば響く会話に驚いたりも。感情の役割は大きいと思う。

 生き甲斐の心理学では、湧き起こる感情を握りつぶす(抑圧する)ことは良くないとしている。例えば部下が上司に対し憎しみの感情が湧き起こると、良くあるのは、倫理的思考で目上の上司を憎む自分がヘン。修業が足りないとか、そんな風に自己否定的になったりするのは良くないと考える。まずは、憎しみとか、湧き起こる感情を素直にいったんは認めることが大事なのだ。。しかし、普通は誰もそんなことを教えてくれないので、ヘンな自分を責めたり、感情を握り潰し心がなんとなく不自由になったりする(自戒をこめて)。

 そして、生き甲斐の心理学では、どんな感情が起こっても、それを握りつぶすのではなく、いったんは受け止め、何故そんな感情を持ったか、感情の意味を考える訓練をする。そして、いったんは倫理道徳抜きに、そういう自分を認める。さらに憎い生徒、憎い姑・・・まあ、その意味・理由を思索するとワンパターンの感情にひきつられた思考や行動とは、違った世界が開けてくる。怒る理由、憎む理由、嫉妬する理由・・

 そして、一呼吸、二呼吸する余裕が生まれたら、次はできれば自他肯定的にとるべき行動を思索することだろう。人はどんな状況に陥っても解釈次第で明るく生きられるようだ。

 さて、写真は私の住んでいるところに近いある神社の鳥居であるが、私はこの場所が好きなので良く行く。まあ、秘密のスポット(もう公開しているが)なのだ。そして、そこのアース・フィーリング(湧き起こる感情)を楽しむことにしている。私の住んでいるところは結構縄文遺跡があり、1万年とか2万年とかの歴史があるはずだ。そして、神社とか寺があるところは、由緒等がはっきりしなくても、例えば1万年の歴史をほこる聖地だったりも。通り抜ける風、日差し、そんなところから妄想するのも楽しい。

 アースフィーリングを味わうということ、これも考えてみれば湧き起こる感情の意味を考える訓練なのだろう。鴨居社長はきんぎょ占いをするが、湧き起こる感情を思索することの方が、私は役に立つように思う。人から言われた占いより、その時湧き起こる感情の意味を考えるほうが良いのでは?

縄文スイッチ ② 1/10

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神仏のイメージを考える!(縄文スイッチ ① 10/10)

2014-12-19 | 第一章「意識と知覚」

 私の家の10キロ圏内に、田端環状積石遺構、ストーンサークルがある。そして、その遺構から南方向に丹沢山系や富士山(頂上付近)が望めるが、冬至には丹沢の一番高い蛭が岳頂部に日が落ちるという。さぞかし美しい日没に、縄文の人たちはどのような神のイメージを持ったのだろうか。特にこのストーンサークルが活躍した時期は、縄文後期の生活に厳しい時期。とても興味が湧くところである。

 先日行った国宝展の縄文のビーナス。ともしびの中で表面の雲母が微妙にきらめいく女神像。優しい女神のイメージが人々を安らかにしたかもしれない。しかし、香炉型土器にあるように、裏と表で恐ろしい姿もある二面性をイメージしていたかもしれない。日本神話にも、イザナギの冥界にイザナミを探しに行く話があるが、冥界の食べ物を食べたイザナミの恐ろしい姿の様子があるが、そういった相反するイメージが共存していたかもしれない。

 神仏のイメージは、自分の記憶を辿ってみても、いろいろ変わる。幼いころのイメージ。少年のころのイメージ。青年のころのイメージ。そして今。それは、その時の様々な状況や神仏の理解のしかたなどに大きく影響されているようだ。

 その時、その時のこころの健康度を考えると、私にとって健康な神仏のイメージは、何処かで甘えられ、自分をゆるす神のイメージだ。それから、頼りになるイメージもあるだろう。その反対の甘えをゆるさず、何を考えているのか判らない神のイメージの時は、こころの健康度も低いようだ。神仏のイメージと心の健康。こんなことを研究する人も世の中にはいらっしゃる。

 さて、縄文人の神のイメージ。優しいビーナス。仮面をかぶる女神・・・来週の22日、冬至の時。丹沢に落ちる日没を眺めて妄想したい。写真は丹沢山系と富士山。 

縄文スイッチ 10/10

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右肩さがりの時代を楽しむ!(縄文スイッチ ① 9/10)

2014-12-18 | 第一章「意識と知覚」

今朝の「マッサン」のエリーさん、辛い状況下で新しい生き甲斐を見つけたようだ。

長い人生を辿って行くと、結構いろいろなことに遭遇する。体力も20歳くらいをピークとして衰え、右肩下がりになる。できていたことができなくなったりもする。といって、そんな状況であっても生き甲斐を見出し、イキイキと生きる人がいる。世の中で一般的にいわれている幸福の条件のようなものが、一皮めくれば別の様相を呈す。そんなこともあるようだ。

 今回の衆院選挙というか日本の政治も、何か右肩上がり幻想につかれているのかなと思う時があり、最近は違和感を時に感じることがある。ある経済学者が産業革命・技術革新があるときは必ずデフレになると言ったのを聴いたことがある、そしてその理路に素人ながら納得したのだが。日本が滅びることもなく堅調に生きながらえるのはどうしたらよいか?右肩下がりの現実の中でも最適な方法があるのではとも思う。

 縄文時代の中期(4000~5000年前)。私の住いの八王子も属していた富士眉月弧文化圏は最盛期をむかえ、そして寒冷化の気候変動で縄文後期に向けて右肩下がりの人口減の時代を迎える。500年とかそんなレンジで右肩下がりになる。そんな中、先日挙げた中里貝塚なども影響を受けて消滅したり。

 ただ、立派なのはそんな状況でも戦争をせず、厳しい環境を、時には楽しく生き抜き、私たち子孫に命をつないでくれた祖先だ。そして、その精神文化・宗教が鍵なのだが、それは、今の時代にも大いに参考になるものだと思う。

 勿論、そんな昔の文献等は残っていないので、今までは日本神話から類推する人はいたかもしれないが、不明のままであった。ところが、その精神文化は諏訪地方の神社等の言い伝えや長野、山梨、東京、神奈川、静岡に広がる縄文遺跡、近年の新石器文化研究の世界的発展、宗教学から、いろいろ研究され判ってきている。多分、日本の他の地域以上にの富士眉月弧文化圏の精神文化は深く解明されるのではと思う。そして、思うのだが、その思想(新石器時代の宗教、旧石器時代の宗教)は今の伝統宗教にもコアな部分は受けつがれているように思う。

 その一つは魂とか霊魂とかである。

 日本人の多くは宗教はともかく、死後にも存在する魂の存在を信じているようだ。これは、なんと新石器的、旧石器的・・・もちろん私もカトリックなので魂を信じている。そして、幸福は幸福の条件も大事だと思うが、別の次元もあることも納得している。次の啄木の歌は、その不思議な何かを暗示しているようにも思う。啄木も縄文的だ。

 友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ

縄文スイッチ 9/10

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ことばを越えて普遍的なもの!(縄文スイッチ ① 8/10)

2014-12-17 | 第一章「意識と知覚」

 今年もまもなく終わるが、幸せなことに今年もいろいろな旅ができた。泊りがけの旅は、振り返ると3月には琵琶湖・奈良(二上山含む)。5月には東北(平泉・花巻など)。8月と11月には諏訪方面だ。いつもと比べると少ないようだが、満たされた一年であったようだ。それは、このリストには載らないミニ旅(東京周辺)が結構多かったこともあるが。自分の中で、今までの関西中心の旅の外に東日本の旅が立ち上がってきたこともある。

 一つは、この3-4年前から某読書会に参加するようになり、グリム童話から柳田国男の遠野物語、そして宮沢賢治と民話や童話の世界を知るようになってきたこと。さらに、生き甲斐の心理学で日本人の心を学ぶ中で、日本の古代だけでなく、もっと古い縄文時代などに興味が広がってきたことがあり、それが繋がってきたことがあるようだ。

 例えば、今年は宮沢賢治の足跡を求めて宮沢賢治記念館に行ったりもしたが、生き甲斐の心理学の勉強仲間からオノマトベ(擬音語)のお話を聴いて興味を持つようになった。心の感情表現などオノマトペは、とてもイキイキと感情が伝わりやすいということもあった。

 そして、先日の賢治の読書会で参加者のお話で気が付いたのだが、宮沢賢治の造語や擬音語の天才ということだ。たぶん、それなしでは宮沢賢治の魅力は激減するようだ。宮沢賢治の擬音・造語について先日調べてみたが、吉本隆明さんの『宮沢賢治』という評論があり、その中に擬音論・造語論があり、興味深く読ませていただいた。

 その中で気が付いたのだが、日本語という民族語の影響で、例えば犬の鳴き声は日本では、ワンワンと、日本語の持つ構造的なものに引きずられて表現化される。それが、例えば英語ではバウワウという風に変わってしまう。そして、賢治はそれに抵抗するように、不可思議な擬音語を作り続ける。例えば蛙の泣き声などは「ぎゅっぎゅっ」、鈴蘭が風で揺れる音は「しゃりんしゃりん」。造語は固有名詞と随分関係が深いようで、固有名詞の持つ固定されたイメージに縛られず普遍性を維持するために造語という手段にでたようだ。岩手(イワテ)をヒントにイーハトープと造語化されたのは有名だが、不思議な人名地名が沢山ある。

 先日読んだ、「ツェねずみ」など、普通はチュー太郎とかつけるのだろうが、その想像性をはるかに超えて宇宙的ですらある、「ツェねずみ」は固定された何かを越え・・・宮環賢治の生きた近代の日本を越え、弥生時代を越え、そのころ西欧や日本という地域でも共通点の多かった新石器文化(縄文時代など)に肉薄、あるいは越えて普遍化し、地域や時代を越えてしまっている。

 しかし、言語というのは奥が深い。日本語も恐らく人類が誕生してから20万年の歴史性がある言語だと思う(他の地球上の現在使われている言語も同じだが)。心理学の人格形成論があるように言語にも言語形成論があるのだろう。そして、意識・無意識の世界を特定の言語の世界に投影して人は生きていくのだが、そんな世界を意識する人は少ない。もちろん人格形成にも深みがあり、言語にも深みがあるので、表現の世界はその掛け算のように深みのある世界であることが判る。

縄文スイッチ 8/10

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