イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

リンゴを食べない世界だったかもしれない縄文文化?(解釈のこと 4/10)

2016-02-17 | 第九章「愛」

 私は、ときどき原罪を考えることがある。旧約聖書のイブ(エバ)が蛇から誘われリンゴ(生命の木の果実)をアダムと食べてしまい。エデンから追放される。ところで、もし、イブがリンゴを食べなかったら?そんな話が先日話題になった。

 ふと浮かんだのが縄文文化だ。中東に始まり世界に広がった10000年以上前の農耕文化は、イブのリンゴかもしれない。日本も約2300年くらい前に弥生時代で、そのリンゴを受容していくが、それまでの10000年以上は、農耕文化の産である文字も極端な富の偏在、畜産、激しい戦争・・・の無い縄文文化であった。しかし、それは遅れた文化ではなく、かなり高度な文化であることが徐々にわかってきている。今年もNHKで三内丸山遺跡の紹介があって驚いた方も多かったと思う。

 縄文文化は、リンゴを食べなかった人たちの文化だった・・・。私は今朝そう妄想したのだが。それが理想的な世界かといえば、私はそうでもなく、さまざまな試練(平均寿命も30歳くらいと言われ、日本独特の自然災害や病気などの影響は今以上だっただろう)の中でたくさん葛藤があったと思う。だから、殺人事件など邪悪なこも当然あっただろう。リンゴ(農耕文化)を食べても食べなくても、人の本質は変わらない。もちろん、本当に豊かに生きるという意味で、縄文文化は私たちにとって貴重なリファレンスになるのだが。

 縄文の祖先たちは、どのように神をイメージしたか? 祖先たちは、愛をどのように考え、真善美をどのように追及したか?これも興味深々である。あるいは、ギリシャ神話にあるような自己愛の問題(ナルシスとエコーなど)はどうだったのだろうか?平和な時代は、こうした病理が増えると聴いたことがある。縄文時代は弥生時代に比べると、人の魂を大事にし平等思想もあり、平和だったようだ。そんな中、たくさんのナルシスが存在したかもしれない。縄文の祖先は、それに対しどのように対処したのだろう。

解釈のこと 4/10

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愛の解釈はどんどん変わってきた!(解釈のこと 3/10)

2016-02-16 | 第九章「愛」

 愛とは何か?哲学的な問いかけもあるが、心理学では、「あなたが思う愛が愛」と定義したりする。なんとも頼りないようであるが、このアプローチは結構深い。

 自分の愛の解釈は、約65年で大きく変わっている。私は幼児洗礼のカトリック信徒であるが、その幼いころ、小学生のころ、中高生のころ、20歳台のころ、30歳台のころ、40歳台、・・・そして縄文小説?を書いた60歳台のころとずいぶん違っている。特に50歳代から60歳台にかけては、カトリックの信仰もあるが、U先生の比較宗教学と臨床心理学の影響も実に大きい。

 どこが違うかといえば、自分の狭い了見の中であることは今でも変わらないにとは思うが、それなりに広がりと深さを増していると思う。

 それじゃ分からないと思うので別の言い方を考えると、愛そのものの神様のイメージがより優しく、深く、親しくなってきた(幼いころも意外に似ている)。それから、論文を書くために縄文小説を書いてしまったが(まだ手を加えているが)、それは愛について、真善美の観点から思索・イメージした不思議な経験だ。今の世の中は、あまりに近くにあり、いろいろ惑わされてしまうのだが、その経験から愛を真善美の3つの要素で考えてみると、今の世の神秘が見えてくるようにも思う。

 フェルマーの最終定理を証明するものすごい努力、人権について実際に思索し活動している努力、美しい自然の美や芸術の努力、そんなことは愛とは昔は考えなかったが、最近は、ひょっとしたらと立ち止まってしまう。

解釈のこと 3/10

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過去の失敗からの暗い解釈を越えて!(解釈のこと 2/10)

2016-02-15 | 第七章「光と復活体」

 人の一生は、思わぬ方向に舵をとることもあるのだと、つらつら思っている。

 私は、幼いころから身近に父や祖父がおり、どちらも理科系だった。そんなこともあり、幼いうちから将来は理科系に・・・という思い込みがあったようだ。そして、小学校、中学校と国語の成績は悪かった。特に中学2年の時は最悪だった。それを、中三で少しばかり克服したこともあるのか、高校になると国語が1年好きになったのだが、ちょっとした気の迷いと考え、理科系で進学し、就職も理科系に拘った。

 しかし、就職してからは、やや文化系的な道を歩み始める。さらに、中年を過ぎてからカウンセリングに興味をもち、生き甲斐の心理学に出会い、今に至っている。カウンセリングや心理療法の分野には芸術療法などもあるが、基本は言語療法であり、言葉表現は実に大事だ。それゆえ、日本語の研究も勉強の一部に入っていたりする。

 自分の中にある、さまざまな失敗や挫折の体験。それは、当時の私としては力不足だったり、たまたま環境のせいで、そういう結果になっただけなのに、過去は意外に重くのしかかる。それゆへ、普通だったら私も文化系の方向に向かわなかったとも思うが、友達の影響もあり学生時代後半に変わってきた。

 一つは、文化系のサークルに入ったこともある。その影響もあり、大学3年のときは、理科系の仲間を中心に文集(小説集)をだしたりした。そのとき私は未完の短編小説(如実に力不足を表しているが)を書いたのだが、もちろん力不足は否めないものの、何か自信をちょっとつけた。その無謀が、今の縄文小説につながっているかもしれない(笑)。

 これは、わたしの劣等感の例だが、考えてみれば、いろいろな出来事の中で自分の暗いイメージを形成してくるのは事実だろう。しかし、その多くは幼いゆえの偏った解釈や、若さゆえの力不足だと思う。自分の中の体験からの暗い自己イメージ。それは、日常にどこか重なり、暗くしがちだ。ただでさえ、目の前には課題があり、ストレス曲線にみちているのに、そんなへんなイメージがかぶさってくると、こころは不健康になってくる。

 自分の中の暗い傾向。その多くは、エリクソンの8つの性格形成理論などを考えると突破できるように、今では考えている。そして、過去の妄想を解体して、今の建設的なストレスを大事にしていきたいと思う。

解釈のこと 2/10

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解釈することと事実の相違・・・(解釈のこと 1/10)

2016-02-14 | 第五章「和解と平和」

 黒澤明さんの遺作、「まあだだよ」を昨晩観た。大学の仕事を辞して、好きな文筆業に専念する先生の物語だ。黒沢明の「生きる」も若き日のメメントモリ(ラテン語で死を想えということ)を追求した話のようだが、「まあだだよ」は年老いた日の氏のメメントモリだと思った。

 「生きる」の最後の場面のブランコはどこか哀愁を帯びていると思うが、「まあだだよ」の子供時代のかくれんぼと夕焼けの空の美しさは、もっと透明な喜びを表しているように思えてならなかった。恐らく、死の解釈が変わっているのだろう。

 自分のことを振り返っても、若いころ、特に青年時代は、自分の物事の解釈が、防衛機制のせいで非常に硬く。まあ、自分の解釈したことはもう客観的な事実であるかのごとく思えた時期があったようだ。今は、年をとり頭が固くなるといわれているが、解釈の面では逆に柔軟性がでてきたように思える。

 例えば、日本国憲法の前文がある。この解釈も、専門家でない私がどう解釈するか・・・恐縮なのだが、昔はさておき今は意外に肯定的に解釈している。そして、これをさまざまな状況判断をベースに否定的に解釈する方の意見を聞くと驚いてしまう。同じ文章でも、こうまで人は違って解釈するのかと。それを知ると、解釈とは何かという問いかけがこころの内からふつふつと湧き立つ。

 文章なので事実とは恐らく違う次元なのに、あたかの事実のごとく語る。こころのダイナミズム、信じて見える世界・見えなくなる世界・・・そんなことも頭をかすめる。ただ、解釈で喧嘩するのは人の常であるが、ほどほどが良いと思う。

解釈のこと 1/10

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最高のつながりで一番大事なこと!(つながること 10/10)

2016-02-13 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 何十年ぶりに小石川後楽園を訪れた。梅が綺麗だったが、思いがけずオスの翡翠(カワセミ)を観ることができた。都心で翡翠(カワセミ)とは、こころが躍った。

 亡くなった祖父は四ツ谷に住んでいて、曙橋のそばは川があったとか、山葡萄を食べたとか、母に言っていたようだ。狐やタヌキも出たと私に言ったこともある。今は都会になってしまったが、一昔前は四ツ谷にも自然があふれていた。それが、戻ってきているのかもしれない。

 翡翠(カワセミ)といえば、山梨県の高速道路の釈迦堂パーキングエリアから歩いて行った博物館を思い出す。たくさんの土偶が展示してあったが、珍しく、イノシシや翡翠の土偶もあったのである。日本人が数千年以上にわたり翡翠を特別な想いで接していたのだ。

 翡翠はカメラ愛好家が必死におっかける。美しい姿もあるが獲物を追う姿が、なんとも素晴らしいのだろう。静と動。オスは餌を得て、求愛行動としてメスに振舞ったりすることもある。

 さて、こころを繋ぐことについて、一週間以上お付き合いしていただいたが、一番大事なのは何か。そんなことを昨日から考えている。ロジャースの6条件とか傾聴のポイント、エンカウンターなどいろいろあるが、今日の私は役割という言葉が浮かんできた。

 生まれてから今まで、考えてみれば私は何らかの役割を得、そしてさまざまな他者から役割をとおして慈しみを受けてきた。

 そうだ、人とのつながりは、何らかの役割を通してと考えられないこともない。母と子など家族(生物学的、社会的・・・さまざまな意味があるだろう)としての役割もあるだろう。仕事上の関係、ケアの関係、・・・いろいろあるようだ。

 人との関係・・・マンネリの関係、反目しあう関係、お互いに助け合う関係・・・といろいろあるが、自分の人生でも得難いつながりを感じたとき、それは何でかと考えてみた。私は、そこにその人らしい深い思索を通しての役割があったように思う。親と子、先生と生徒、師と弟子、・・・ありがたい関係や役割。

  

つながること 10/10

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