田舎暮らし山裾の日々

信州に移り住み16年 山裾になじむ今日この頃 ECOな生活“循環型社会”を志し 昔と今の田舎の生き方を愉しむ

文学碑が多い立科町を巡る 

2011年11月08日 | 日記

11月8日(火)  晴れ  薄い曇が広がる寒い  女神湖周辺は更に寒い

立科町には文学碑が多いと聞いていたので、何時の日か巡って見たいと思っていた。先週、有線放送で公民館とすずらん学級運営委員会の主催で歌碑を巡る会があると云うので参加を申し込んでおいた。出発時間は9時と云うので50分に着くと既にバスには人が乗っていて空席は俺ひとり分だった。

全員を待たせてしまったが、すずらん学級は老人会の文化活動と云うことで集合時間前早くから集まるそうだ。

案内は竹花初雄先生で先ずは津金寺でバスを降りた。ここには保科五無斉さんや明治の旧村々の財産区の境界争いの折裁判所評定委員が連歌を残したものが碑となっている。

五無斉さんの碑には「我が死なば先の山部に送るべし焼いてなりとも生でなりとも」「ゆっくりと娑婆に暮らして暮らしてさてお出でわしは一足ちょっとお先へ」彼特有の狂歌だが、町の偉人として創作紙芝居にもなっている。

津金寺の見事な紅葉を後に次は中山道笠取峠松並木公園に向かった。ここには若山牧水の歌碑や前出の五無斉さん、三石勝五郎の歌碑が遊歩道沿いに置かれている。

次に向かったのは茂田井で集落の公民館がある広場には神社、芝居小屋などがあるが、大きな石の鳥居の脇には芭蕉の「山路来て 何やら床し すみれ草」の句碑がある。これは茂田井在住だったが俳人が碑を建てたと云われている。この「野ざらし紀行」に収められている句は、芭蕉が「大津に到る道、山路をこえて」の詞書にある句だが、この句碑は全国に40基ほどあるそうだ。

廻り舞台のある芝居小屋、両袖には花道もあり太い欅の梁の上にはコテ絵が描かれ、当時は漆喰の白だったが、太平洋戦争で空から白が目立つと墨で黒く塗られている。昨今は大鹿歌舞伎で民衆文化が見なおされているが、何時の日か茂田井の芝居小屋で三番叟でも見てみたい。当時使われていた衣装は集落内の大澤酒造の美術館展示されている。

同じ茂田井の中だが、ここは望月町(現佐久市)地籍になる、武重酒造を見学した。何時もなら聞き酒に杯を交わすのだが、今日は若山牧水の歌碑がある。

集落を流れる堰は昭和の30年頃までは生活用水として使われたそうだ。

里を後にして向かったのは標高1550mの女神湖二西岸には伊藤左千夫の「蓼科山歌」の歌碑が置かれている。

女神湖の南ボートハウスの前には女神像と共に、瀬齊正峰の「蓼科旅情」の歌碑が刻まれている。昭和40年代末には歌謡曲として中山大三郎が作曲し野路由紀子が歌ったCD(当時はドーナツ盤)が町内全戸に配られたそうだ。

最後に訪れたのは牧場のなか、冬はゲレンデとなるがその下のところに若山牧水夫妻の歌碑が置かれている。しかし、ここには案内板もなく近年は訪れる人も少ないそうだ。

 この町には若山牧水の歌碑は7つある。また、町内には個人で立てた句碑を含めると相当数あり、集落でも句会があるところが多い。

久しぶりに文学的な香と昭和40年代まで多くの文人が訪れたそうだが、今はその方面はどうなっているのだろうか。

公民館に戻ったのは12時10分予定通りの行程で研修会が散会となった。

コメント
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