原爆を被爆してその後の人生が変った人もいるし、原爆で亡くなった人の数は広島では14万人とも言われている。これは昭和20年(1945年)中に亡くなった人の数だそうだから、その後の晩発被害で亡くなった人は入っていない。
ところが、人生には逆に危ういところで原爆に会わずにすんだ人もおられる。そういう数奇な人生を送った人もいる。そのうちの数名にしかすぎないだろうが、私の知っている例をいくつかあげてみたい。
これは妻の知人のK夫人のことであるが、幼児のときに広島市に住んでいた。ところが父親は兵隊にとられて、母親と二人で住んでいたが、昭和20年になって家の前の通りを戦車を通すために狭いからといって、家を壊されて強制移住のやむなきにいったという。その家のあったところは後に原爆の爆心地とされたところからは数百メートルしか離れていなかったという。
家にあった服とかもほとんど持ち出せずにK夫人のお母さんは不満だったらしいが、しかたなく故郷の愛媛県に帰った。そしてその3日後に広島に原爆が落とされた。K夫人はそのときに3歳でものごとがまだよく分る年齢ではなかったらしい。
この家屋の撤去は普通には焼夷爆弾攻撃での類焼を防ぐためと言われているが、その当時はそういう風には言われないで、戦車を通りに通しやすくするためという口実が使われていたらしい。
今ならともかく当時戦争の遂行に係ることに異論を唱えることなどできない情勢だろうから、家を取り壊されてそこに住めなくなったK夫人のお母さんにとってそのときの不平不満は想像するに難くはないが、それでもそのために命拾いをしたことの感慨は深かったであろう。
明日はもう一人の方の話を書いてみたい。