福島第一原発が事故を起こして、原発の安全性の神話が崩れた。これはもともと安全神話がおかしかったのだから、当然の話である。
しかし、25日の雑談会で話として出てきたことはあまり普通に議論されていないことだった。それは確かに「人類はどうやって原発をなくしていくか」ということを真剣に考えたときにはそのための専門家を育成しなければならないということである。
そういうことを考えたり議論したりする人があまりいないことが問題なのではないかという指摘はまったく正しい。確かに、精神的に原発反対だと言いさえすれば、原発をなくせるというのはまた別の神話である。そういう神話は願い下げにしたい。
それにしてもある技術的な分野においては技術的にチャレンジングな課題がないと優秀な人材が得られない。そこがなんとしても大きな課題であろう。だが、なんとしても人類を放射能禍から救うというような大きな課題をチャレンジングな課題と捉えられる若者が出て来てくれるだろうか。
私の先生の一人のS先生は生涯の多くの時間を原水爆禁止に捧げた。そしてそのことを彼は密かに誇りと思っていたが、それは少なくともそれが人類を救うことになると信じていたからであろう。それとはちょっと違うが、原発をなくしていくためにもこれから100年かそれよりも長い時間がかかる。ましてや放射性廃棄物の処理に関しては何万年もかかる。
人類はある意味ではあまり賢くなく利害によって、お互いを生き難くしている。それは炭酸ガスの国際的な排出規制などの国際協定があまりうまく進まないことにも現れている。また、市場は利益を求めて市場を席捲している。どうも人類はなかなか大局的な見地には立てないものである。