先週の9月21日の土曜日に愛媛大学であった、表記のミニ学会に出席した。私は別に外国語を誰かに教えたことはないのだが、このことに関心をもっている。
ここ数年私の主宰する雑談会と同じ日程となるので、参加ができなかった。たまたま今月は第5土曜日に雑談会の日程が延期されたので、出席の機会があった。
二つの講演が頭に残った。一つは東海大学のO教授の試みであるが、日本語を英語で書くというときに英語の語順を教えて英文の書き方を指導するという方法よりももともとの日本人の思考法というか文化を反省して日本人はindividual-orientedではなくgroup-orientedであるという文化の違いをまず教えたらどうだろうかと提案であった。
その提案はおもしろいものであるが、むしろその中間の、言語による考え方の違いとか語順の違いに焦点をおく方法とを併用した方がよいというのが私の考えである。
そうすると、これは長年勤めていた予備校での英作文の講義で作家の小田実がしていたように、日本文を簡単な英文で言うとか書くという指導法になるのではなかろうか。
例を上げれば、「これは私が生まれた町です」と日本語で書かれたとき、英語ならまずThis is a city(これは町です)という、そしてつづけてwhere I was born(そこで私が生まれた)というだろう。
全体を続けて書けば
This is a city where I was born.
フランス語ならC' est une ville 'ou je suis n'e. とでもなろうか。だから、発想が違うのでその発想法の違いを教えて英語を話すときには英語の発想法にならなければならないと教えないとどうしても英語など話せないと思う。
これは長年ドイツ語やフランス語をラジオやテレビで学んできてそう思うのである。だが、普段の生活ではやはり日本語に圧倒的に支配されているので、そういう切り替えがなかなかできない。
いつもドイツ語のクラスで指摘されるのはドイツ人はそういう風にはいわないと言われる。ドイツ語の難しさを感じている。それは別にドイツ語には限らない。外国語はそれを母語にしないしない人にはいつでもそうなのであろう。
それにつけても、テレビに出てくる日本在住の外国人たちが自由に日本語を話すのを聞いているといかに自分の英語とかドイツ語とを話す、レベルが低いことかといつも思い知らされている。
もう一つの講演は小樽商科大学のC先生の試みであって、毎回英語を話す人を呼んでのシリーズの講義である。これはもちろん英語で話されるのではあるが、話す人にとっては自分の人生の生き方を話すという趣がある。
もちろん、こういう試みはあまり多くの大学では行われてはいないだろう。それもほとんどそのための財政的な裏付けのない中で報告者の事務的だけではない、負担で行われているらしい。最近では学長裁量経費からいくらかの支出をしてもらえていたりするようだが、やはり基本的には英語を話すスピーカーを探すところが一番大変の労力のいるところであろう。
もちろん、ふんだんな資金があれば、全国どこからでも英語のスピーカーを呼んでくることは何でもないであろうが、財政的にきつきつであれば、なかなかできることではない。しかし、ここ数年その英語スピーカーのシリーズ講義を行っているというのには頭が下がる。
これは第一に上げた試みとは違って別に語学的に細かなことはなにも言わない。ただ、英語を話す人々が講師となってのシリーズの講義が行われているというだけである。だが、これはこれで意味がある。
なんでも、それを行うという強い意欲(intention)をもつことが大切だと知らされた。強い意欲なしはなにごとも成し遂げられない。