今朝、久方振りに友人からの電話があった。彼は私よりは4,5歳年上であるが、ある団体に私たちは所属しているので前には頻繁に電話をかけあっていたが、このごろは電話をかけあうことが少なくなっていた。
昨日、この団体の会報の原稿を見て、コメントを書いたのだが、この友人にもコメントをもらった方がいいかと思い、彼にメールでこの会報の原稿を送った。
それで、実は私の書いたコメントが元の原稿よりは量的にも多くなったので、これを独立した原稿としてくれないかとの依頼だった。基本的にはその依頼を引き受けたのだが、それにしてもなかなか自分のした体験であるのに何かのきっかけがないと思い出さないのである。
そこがちょっと不安なところであるが、まあなんとかならないわけではなかろう。それにしてもそういう気楽に依頼をできる人が少ないことが問題であると考えている。
人間は自分が生きているのだから、多くの経験をしている。ところがそれを文章に書こうとするとそれを書くことができる人は少ない。また、文章を書くことをそれほど苦にはしていない私にしてもそんなに簡単なことではない。
だから、もっと一般の人には難行苦行であるだろう。そうではあるが、そういうことを誰かがしないとやはりいけないと考えている。
話はまったく変るが、私の取り組んでいる一つの試みとして中学、高校および大学の基礎数学などのe-Learningのコンテンツの作成がある。構想はあるが、それが具体化するのはなかなかである。その一部はもちろん公表しているのだが、大学のセクショナリズムなどのために一般に公表するところまではいたっていない。
これはその資料を作成段階で学生のアルバイト料をE大学のあるプロジェクトに払ってもらったとかの義理があるためで、私もそれ以上にはなかなか押して主張できない。だが、本当のところはインターネットで公表したところで、それがE大学の学生の使用に弊害を及ぼすことは考えられないと思う。
そういういきさつのあるものであり、私としても構想のまだ半分にも到達していないのであまり本気でその公表を主張する気が起きていない。もっとも数人の方には公表をしない条件で個人的にそのファイルを送っている。
ところが、それをお送りした人たちからはほとんど「それでここの部分に感心した」とかいうような、または「ここは書き方が悪いのでこのようにしたら」とかいう、フィードバックがほとんどないのである。それもこのファイルをお送りするときに公表は事情によって控えてほしいということと共に何らかの感想を求めているにも係らずである。
現役の中学校や高校の先生が多忙であることは理解しているつもりだが、それにしてもこのとても少ないフィードバックはどういうことなのだろうか。人は自分の感覚も麻痺してしまっているように感じられる。