8月も早くも6日である。77回目の広島原爆投下の日である。
この日、当時5歳か6歳の私がどうしていたかよく覚えていない。故郷の I 市の自宅にいたのか、それとも母の故郷の瀬戸内海の小島にすでに疎開していたのか(注)。
たぶん後者ではないかと思う。数日して広島に「四里四方爆弾」が落ちたとこの小島に滞在中に噂で聞いた。原爆という名が定着した今では 「四里四方爆弾」などという名を記憶している年長の方はもう居られないだろうか。
要するに一発の爆弾で町が壊滅したということを表す、その頃の表現であった。
物理学を学んでも、原爆とかとは縁遠い私であるが、大学の工学部に勤めていたことと、上司の教授が原子力工学の初歩を学生に教えていたという、いきさつから、ある年から毎年原子炉の原理を教えることとなった。この義務は幸い10年ほど講義をした後で、お役御免となったが。
原子力工学の初歩を本で学んで、びっくりしたのは無限大の大きさの原子炉をまずは考えるということであった。現実の原子炉の大きさはもちろん有限であるが、物理学者はこういう奇妙な設定を好んでするということにようやく気がついた。
理想化といわれる思考法である。そういえば、力学を学んだときでも、まずは大きさのない、質量だけをもつ質点を考える。または、摩擦や空気抵抗のない世界を考える。
そういうものは世界に存在しないのだが、そういうものをまず考えて理想化された世界の法則を求め、それから徐々に現実の世界に迫っていく。
凡人の私にはこういう思考方法を物理学はとるのだということを、ようやく原子力工学から知ったという次第である。年はもう40歳に近かっただろうか。
最近、ラジオR2のカルチュアラジオ「科学と人生」の『みんな量子論』で、講師でサイエンス作家の竹内薫さんもそんな話をされていた。
(注)夜の四国のNHKニュースをみていたら、8月6日の夜に私の郷里の I 市の空襲があったということで77回目の慰霊祭が昨日 I 市のあるお寺で行われていた。
だから原爆の日は I 市の空襲の日でもあると知った。それだと私は自宅にいて、焼夷弾爆撃を受けた目撃者の一人である。私が死なずに生き延びることができたのは、単に運がよかったためである。
上の文章は変更すべきであるが、そのままにしておく
夏の夜空の花火を見ると連想して、あの焼夷爆弾空襲の夜を思い起こすことがあるのはしかたがないだろう。
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