私が27歳になった年の4月であった。その前年に3年越しの研究がようやく完成して、博士課程の3年生(最終学年)になった。
私があまりできのよくなかった学生だったために、修士課程のときに与えられた課題が迷路に入り、にっちもさっちもいかなくなった。
この研究は広く言えば、核力研究の一環の研究であったが、たぶん私の力量を正確に推測して、同級の H 君と私に先生の S さんから、与えられた課題であったのだが、その処理を誤ってしまった。そのどこでどうまちがったのかがまったくわからないという事態に至った。
どこかがわるいことは明白だが、それがどこかわからないという事態である。ある計算結果がわるいのだが、別のある計算結果に注目すれば、それがわるい感じはまったくしないのに、他の計算結果は一目瞭然でおかしいのだ。だから私たちを指導されていた先生方からは、お前たちの結果はまちがいだと言われていた。
それには一言も反論の余地はないのだが、一方で「私たちの計算に間違いはないのにな」との愚痴もH君と私の間では出た。
しかし、間違っている計算結果であることも事実である。そういう、うつうつした期間が長く続いた。多分2年以上であろう。
博士課程の2年目が終わる前の12月ころだったか、あるまちがいに H 君と私とが独立にほぼ同時に気がついた。これは新しく生まれる波動関数の正規化を元からある波動関数と同じにしているという、まちがいだという推測だった。
研究室一同でバスでスキーに出かけるときの朝だった。JRの H 市駅前で H 君とまちがいの原因について話し合った。スキー旅行から帰ってきて、コンピュータ・センターで H 君がその検討にとりかかった。
H 君は計算が達者な方である。ところがすこし計算していた彼が顔を曇らせてダメだと頭を振った。私はコンピュータで計算をさせていたので、その計算には加わっていなかった。
H 君はがっかりしてもう家に帰ると言った。彼が家に帰った後で、彼の計算をチェックして見たら、どこかに計算間違いがあり、そこを修正したら、確率の和が1となった。
計算の達者な H 君が計算間違いをしたからといって、彼を責めるのはまちがいであろう。それくらい私たちはもううんざりしていたのである。
それはともかくとして、まちがいの原因を突き止めたので、多くの計算が生き返った。それでその年末から論文を書くことができるようになり、それが完成したのは、ようやく博士課程2年目が終わるころだった。
その研究を提唱してくださった S さんと Y さんと H 君との共著論文を書いた。
博士課程3年目の4月に Y さんに頼んで、H 君と私とに別々の課題を一つづつ出してもらい、それが私の学位論文となった。研究が一段落したのは10月も終わりの方だったと思う(注)。その夏は帰省できなかったので、10月末にようやく帰省を果たした。
この研究の論文が雑誌のレフェリーを通ったのは1968年2月くらいだったと思うが、先生の Y さんの後押しがなかったら、学位などもらえなかったろう。
(注)この研究に際して Levi-Civita 記号の縮約の公式を使う場面があり、それが自分では導出できなかったので、これを先生の Y さんに頼んで導出してもらった。そのことが、後年に私がベクトル解析で使うと便利な Levi-Civita 記号の縮約の公式を導くという解説を方々で書くことのできた理由である。
Levi-Civita 記号の縮約の公式の導出(この公式自身は多くのテクストに載っている)をあからさまに書いた文献はそのころは珍しかった。私がその解説エッセイを書いたのは1985年だから、この研究からは18年後のことである。
このレビューは愛媛県数学教育協議会(民間教育団体:数学教育協議会の下部団体)の機関誌に1985年に発表したのだが、本として発行したのは2005年の『数学散歩』(国土社)が初めてである。
もっとも本としては、私よりも1年早く『ゲージ理論入門』II (講談社、1984)の演習問題の解として上智大学におられた藤井昭彦先生が書かれておられる。この本に出ていることを知ったのは私が2度目か3度目の解説エッセイを書いたころである。