物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ゲーデル

2023-02-02 13:19:35 | 数学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(15)である。

 

(15) ゲーデル (K. Goedel 1906-1978)

今月はゲーデルをとりあげよう。ゲーデルについて私の知っていることはほとんどない。私の思いつく手がかりとしてはホフシュタッターの本『ゲーデル、エッシャー、バッハ』くらいなのだが、これが訳本でも765ページの大著ではじめから読む気力を失わせるような本でとても参考資料にはなりそうにない。

もっともホフシュタッターの父親はノーベル賞を受賞した物理学者で、私はその昔、学部学生のときの卒業研究のテーマで「原子核の荷電分布」というのを与えられ、ホフシュタッターの論文を読んで、その実験結果を簡単な仮定から再現することを試みるというような行きがかりはあったのだけれど、これはまったく本題からはずれる。

ゲーデルはウィーン大学で数学と物理を学んだ後、プリンストンの高級研究所 Institute for Advanced Studyで研究をし、そこで亡くなった。彼は現在のチェコスロバキアのBruno(当時のオーストリア・ハンガリー帝国のBruenn)の生まれというから、正真正銘のドイツ語圏世界の科学者である。彼ほどの数学者がプリンストンで正教授になったのが、46か47歳のときだというから、決して早い方ではない。ゲーデルは天才的な数学者であるノイマンに数学基礎論の研究を断念させるほどすごい学者であったらしい。

ゲーデルの業績は「どんな矛盾のない公理系も不完全である。すなわち真か偽か決定できない命題をもつことを証明した」ことにあるという。このことは思想的観点からみてもきわめて重要であるといえよう。公理系がその自己完結性をもたず、つぎからつぎへとつながって行くところが、ホフシュタッターの本『ゲーデル、エッシャー、バッハ』のモチーフでもある。

しかし、一つの理論体系が自己完結的になりえないという考えはゲーデルとの関連においてではなく既に私たちは知っている。それは坂田昌一の自然の「無限の階層性」の哲学である。いかに見事な物理法則の体系が完成してもその中にはかならず偶然に支配される現象的な要素があり、それについての考察がつぎの新たな論理を生むというのが坂田の終生変わらぬ信念であった。たとえば、現在の素粒子の標準理論といわれる電弱理論においても対称性の破れといった問題があり、それについてはヒッグス・セクターの問題といった形で現象論的段階のまま残されている。

数学基礎論についてのヒルベルトの公理主義の立場ははじめ成功したかに見えたが、結局ゲーデルでの不完全性定理によってその夢は打ち砕かれてしまった。しかし、「形式的公理系は不完全だが、その背後には絶対的な数学的実在がある」とゲーデルは考えていたらしい。この考えは今は亡き遠山啓らの数学協議会に集う人々のとっている立場に非常に近い。

ところでゲーデルの不完全性定理に対するゲーデルのこの考えは量子論にはじめて確率概念を持ち込んだアインシュタインがこの確率概念を最後まで本物だと思わなかったことと極めて類似していて興味深い。

数学者の倉田令二朗によれば、「ノイマンがプリンストンの悪魔」なら、さしずめ「ゲーデルは魔王」であり、彼は年中、リュウマチ、熱、消化不良、風邪に悩まされ、極度の対面恐怖症のため部屋にカーテンを常に引き、黒眼鏡をかけて部屋の隅にうずくまっていたという。

天才たることもまたつらいことだ。我々は凡人であることを喜ぶべきかもしれない。

(1989.10.20)