物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

シュレディンガー

2023-02-09 13:54:18 | 物理学

 これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(18)である。

 

   (18)シュレディンガー (E. Schroedinger 1887-1961)

 一夜明ければ大スターになっていたとか大学者になっていたとかいうのは、映画スターとか学問を志す者の実際には果たすことのできない夢であろう。

 ちょっと見たところでは、シュレディンガーはそのような夢を実現した稀有な人と思われる。1925年、ゲッチンゲン大学のボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンの三者による「行列力学」の創成によって量子力学の一つの正しい定式化が行われ世を賑わした。ゲッチンゲン、ミュンヘン、コペンハーゲンといった当時の学会の主流からすこしはずれたところのチューリッヒ大学の教授であったシュレディンガーの大活躍が1926年の年明けとともに始まる。

 「固有値問題としての量子化(Quantisirung als Eigenwertproblem)」と題する一連の論文が1926年の前半の半年ほどの短期間にあいついで、雑誌Annalen der Physikに現れる。ハイゼンベルク流の行列形式の量子力学の難解さに辟易していた当時の物理学者にとって、これは干天の慈雨にも似たものであった。さらには、やはりこの年にボルンたちの行列力学と彼の波動力学とが数学的に同等であることを彼は示した。これらの研究はもちろんド・ブローイの物質波の仮説やアインシュタインの論文に刺激されてできたものではあったが、だからといってシュレディンガーの天才を疑うべきではない。

 1926年にはシュレディンガーはすでに40歳近くでディラックやハイゼンベルクのような若者とはもう言えなかったが、それだけ力量も充実していたということだろう。ボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンが共同して行列力学を創り上げたのと対照的に独力で波動力学を創り上げている。

 高林武彦は『量子論の発展史』(中央公論社)において彼の仕事はまさに横綱相撲にふさわしいと述べている。もっともシュレディンガーが提案した波動方程式(彼の名にちなんでシュレディンガー方程式と呼ぶのが普通だが)を彼は最初解くことができなかったそうだ。その解き方については当時チューリッヒ工科大学(ETH)にいた優れた数学者ワイルの手を煩わせたという(注  2023.2.9)。

 私たち凡人は数学を学んで、それを用いて何か研究しようとするが、天才たちはそんなことをする必要がない。必要とあれば、自分で数学だってなんだって創り出してしまうのだから。例えば、ハイゼンベルクが量子力学のために考案した妙なかけ算はボルンによってそれが行列のかけ算だとわかったし、ディラックは量子力学のためにデルタ関数を創り上げた。シュレディンガー方程式の解法も、現在では境界値問題として知られている、その当時としては新しい解法を必要としたのであった。また、アインシュタインの一般相対性理論の構想は、数学者にとってはすでに知られていた、テンソル解析とリーマン幾何学にもとづいたものといわれ、アインシュタインは数学者にすでに知られてはいたが、彼には未知のものであったリーマン幾何学のいくつかの定理を再発見したという。

 思わぬ方向に話がそれてしまった。シュレディンガーに話を戻そう。1933年シュレディンガーはベルリン大学教授の職をなげうってオックスフォード大学へと移っていく。彼はユダヤ人ではなかったが、ナチスの行ったユダヤ人同僚に対する教授職の解任や追放等に対する抗議の気持を強く持っていたためという。その後、紆余曲折を経て結局はアイルランドの首都ダブリンの高等科学研究所に落ち着き、1956年に故国オーストリアのウィーンに帰るまで、そこで研究生活をおくる。

 シュレディンガーは哲学的傾向の強い学者で、それも素朴な実在論者であり、波の重ね合わせとして粒子をつくりあげるという基本的なアイディアを抱いていた。また、波動関数ψは粒子の電荷密度を表すものとして素朴にイメージしていたらしい。

 このイメージはボルンが1926年に初めて提唱し、ボーア等の綿密な吟味を経て、その後はコペンハーゲン解釈と呼ばれるようになった波動関数の確率解釈という学会の正統的見解とは根本的に相容れない見解であった。シュレディンガーは波動力学と呼ばれた量子力学の一つの形式の生みの親ではあったが、この波動関数の確率的解釈は彼にとっては生み落とした鬼子のようでもあったろうか。

(1990.11.22)

 

(注 2023. 2.9)波動幾何学の創始者である、三村剛昂先生は私の学生時代に定年退職されたが、シュレディンガーは彼の方程式をワイルに解いてもらったという話を彼からじかに聞いたような気がするが定かではない。これは彼の講演を聞いたときに彼の話に出たのか、それとも竹原市にあったH大付属の理論物理学研究所に私が行ったときに個人的に三村先生から直に伺った話であったかはいまではわからない。

 

(2023.2.9付記)

このシュレディンガーをもって「ドイツ語圏世界の科学者」の数学者と物理学者、化学者の記は終わる。まだ残っているのは生物学者のローレンツと医学者のコッホである。明日以降にはこれらの人についての記を述べよう。

 いずれにしても物理学者を中心とした「ドイツ語圏世界の科学者」は実質的には終わった。