物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

 パウリ

2023-02-07 13:23:47 | 物理学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(10)である。

 

            (10) パウリ (W. Pauli 1900-1958)

 

 ハイゼンベルクといえば、すぐにペアとなって思い出される科学者として今月はパウリを紹介しよう。パウリはハイゼンベルクの一つ年上でミュンヘン大学のゾンマーフェルトの学生としてはハイゼンベルクの先輩である。ハイゼンベルクが野や山やWanderungを好み、「太陽の子」と呼ばれたのとは対照的に都会を好み夜毎に酒場に姿を現したという。性格的にも正反対のこの二人は終生深い友情で結ばれていた。

 パウリはウィーンの出身でゾンマーフェルトのもとで20歳になるかならぬで相対性理論についての論文を書いた。その理解の深さ、透徹した論理や鋭い批判によってこれを読んだ人は誰もこれが20歳の若者の作とは信じなかったという。日本でもゲージ理論の先駆的な研究で有名な内山龍雄氏を驚嘆させている。

 パウリはまた「パウリの排他原理」の名で知られる事実を雑多な実験事実の中から本能的にかぎだした。現在では、「排他原理」は美しい数学的形式で表され、このことから「排他原理」はこの方式ではじめて定式化されたのかと思いがちなだが、実はそうではない。

 パウリはあまりに批判的でありすぎたために、彼によって事前につぶされたいくつかの発見があり、その中でとりわけ有名なのはクロニッヒによる電子のスピンの概念の提唱がある。クロニッヒはパウリがこのスピンの考えに賛成しなかったために、電子のスピンについての自己の考えを発表するのを見合わせた。その直後にオランダのライデン大学のエーレンフェストの学生であったウーレンベックとハウトシミットが電子のスピンの考えを提唱し、このときは何故かパウリはそれほど反対しなかったために、電子のスピンの概念の提唱は彼らによるものとなった。

 しかし、意外に決定的なところでパウリは彼の肯定的な裁可を与えている。それはハイゼンベルクの量子力学の着想に関してである。ヘルゴランド島から休暇の帰途、当時ハンブルクにいたパウリを訪ねたハイゼンベルクは彼の量子力学の着想をパウリに話したが、ここでパウリはそれについて彼の支持を与えたのであった。ハイゼンベルクにとってパウリの支持は他の誰の支持よりも心強く感じたにちがいない。

 パウリはもちろんハイゼンベルクの才能をよく認識していたにちがいなかろうが、事毎にきびしい批判的言辞を披露してはばからぬパウリが認可を与えたというのはやはり彼の天才的な直観によるものであろうか。その直後パウリは水素原子の問題をハイゼンベルク流の行列力学の手法で解いてみせ、世間をあっと言わせた。そしてこれが行列力学の信用をつとに高めたのであった。しかし、この方法はとても複雑をきわめるために私たちが水素原子の問題を大学で教える際には、よりやさしい波動力学的手法によることがほとんどである。

 その後、ハイゼンベルクと組んでの「波動場の量子論」の論文はその当時の場の量子論の集大成でもあった。さらにベータ崩壊に関してエネルギー保存則が確率的にしか成立しないのではないかと言われたときに、「ニュートリノ」という未知の粒子を導入してこの困難を救ったのもこのパウリであった。そして、この粒子は数十年後であったが、実験的に発見された。

 彼の著した量子力学のテクスト『波動力学の一般的原理(Die Allgemeinen Prinzipien der Wellenmechanik)』はディラックおよび朝永の量子力学のテクストと共に量子力学の三大名著と言われている。

 パウリは第2次世界大戦中はアメリカやスイスにいて、純粋な物理の研究に従事し、他の大多数の物理学者とは異なり、軍事研究には関係しなかった。その点で、ナチス治下のドイツで原子力研究に従事したハイゼンベルクやその周りの人々について彼がどのように感じていたかはとても興味のあるところである。

 死の直前になって、パウリはハイゼンベルクと再び一つの共同研究を行っていた。これが世にいう「宇宙方程式」である。しかし、あるときパウリはハイゼンベルクと意見を異にし、ある学会において厳しい口調で彼を非難し始める。その批判は遠慮会釈もなく猛烈を極めたものであったという。その場に同席した物理学者でノーベル賞受賞者のC. N. Yangは、激昂しているパウリに対してそんなときでも冷静さを保っているハイゼンベルクの姿に感銘を覚えたと語っている。

 「物理学の法王」といわれたパウリは59歳で世を去った。日本でも湯川、朝永、坂田、武谷といった素粒子物理学者の中で坂田が一人、59歳の若さで世を去ったが、人の良い点をみて、悪い点をあげつらわなかったという点で坂田とパウリはまったく正反対の極致にあると思われる。しかし、政治的、学問的信条において自分の信じる点を譲らなかった点では坂田とパウリは相通じるものを案外持っているのかもしれない。(1989.6.6)

 

(2023.2.7付記)

この「ドイツ語圏世界の科学者」も残りが少なくなってきた。昨日のハイゼンベルクと今日のパウリはそのハイライトであろうか。同じ物理関係のブログのkouzouさんと同じ人を取りあげることになっているかもしれないが、視点はまったくちがうはずである。もともとこれらの記事は雑誌「燧」に掲載される前にパンフレット”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”に毎月掲載したものである。

これはNさんという方が始められた松山でドイツ語を学ぶ小さなグループがdeutsche Gruppe in Ehimeであった。それに関係していたドイツ人の友人R氏がNさんに共鳴して出されていた、小冊子が”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”である。別にR氏から特に強く勧められたというわけでもなかったが、彼に協力するということもあって書き続けたと思う。それをまとめて、その後に雑誌「燧」に掲載したといういきさつがある。これまでこれらのエッセイが読者を十分に得たとは思わない。

このブログでの発表によって何回目かの発表したことになるが、これを読んでまったくの的外れのエッセイだとかいうような批評はどこからもまだもらったことがない。