物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

コッホ

2023-02-10 16:20:47 | 科学・技術

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(16)である。

 

       (16)コッホ (R. Koch 1843-1910)

 年も改まって1990年となった。ヨーロッパ、特に東欧世界の1989年の政治情勢の変動は、情報通の人々の予想をもはるかに上まわっていた。東欧世界の自由化の兆しを喜ぶ一方で、我々の「自由」世界がこれでいいのかと本当に疑問に思う。例えば、記録映画「核分裂過程(Kernspaltung)」に見られるような国家権力や地方政府当局の市民への抑圧や市民の抗議行動について報道をしないといったことは別に核廃棄物処理工場の建設を強行しようとした西ドイツのバッカスドルフについてだけ見られる現象ではなく日本においてもしばしば見られるものだからである。

 前置きが長くなったが、今月はコッホをとりあげよう。コッホは結核菌やコレラ菌、羊や牛の病気である炭疽病の病原菌を発見したこと、および、ツベルクリンの創薬等で知られている。これだけを聞いたら、コッホは大学とか研究所に勤める学者、いや現代風に言えば、研究者のように思えるだろう。しかし、彼の伝記によれば、炭疽菌や結核菌の発見は彼が一介の田舎医者だったり、保健省の役人だったりしたときに行われたものだという。数学者ワイヤストラウスが高校の教師をしながら、偉大な数学研究を行ったと同じように。その後、コッホはベルリン大学教授になり、伝染病研究所の所長となったが、彼の研究の方法はすでにそれ以前に彼の手によって独自に形成されたものであった。

 パスツールが発酵や腐敗は微生物の作用によることをすでに確立していた時代ではあったが、それでも病原菌についてのいろいろな研究方法はまったく確立していなかったし、それについての専門的教育も専門家も存在していなかったときだけに、このコッホの研究の独創性はいくら高く評価しても評価しすぎることはないだろう。低温殺菌法を意味するpasteurizationという用語に名を残したパスツールの方が「微生物の狩人」としてはわずかに先駆者であろうが、我々は非常に多くのものを医学の分野でコッホに負っている。

 パスツールと彼より約20歳も年下のコッホはライバルで、「犬猿の仲」であったという。これはいくつかの分野で二人の研究が交錯していたことによるらしい。それはともかく川喜田愛郎の『パスツール』(岩波新書)によれば、1880年代のはじめを境にして、病原微生物学の主流はパスツ-ル学派からコッホとその学派に移ったという。

 一医学生のころ遠い異国を旅する冒険旅行家となることを夢見たコッホは、妻からの贈物の顕微鏡によって人類の知らなかった微生物の世界を旅することとなった。彼の若いときの夢は形を変えてではあるが、実現したといえるだろう。(1990.1.4)

 

(2023.2.10付記)

 こういう伝記まがいのエッセイを書くためにはそれなりの読書が必要であり、執筆当時は数冊の本を読んだりしている。このシリーズ以外でもあまり長くではないが、数人の科学者について書いたことがある。

もう一人でこのシリーズ「ドイツ語圏世界の科学者」は終わるが、その後にもなお数人の科学者についてのエッセイを書くことができるだろう。その原稿がうまく残っていればの話ではあるが。