これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(11)である。
(11) ヨルダン (E. P. Jordan 1902-1980)
後年ワインの当たり年として知られるようになった1976年の5, 6, 7月はドイツ、いや、ヨーロッパではカンカン照りの日照り続きであった。私たちの住んでいたマインツ郊外のWohnungの前庭の芝もこのときほとんど枯れてしまった。雨が降らないため、渇水で庭に水を撒くことも自制するようにとテレビ、ラジオで放送されていたらしい。何日も何日もほとんど雨らしい雨も降らないために空気が乾燥しているせいか喉がからからに乾く。一般にヨーロッパでは5月、6月は一年で一番よい季節で晴れたよい天気が続くのが普通だ。しかし、この年は少し異常だったようだ。あくまで澄んだ空をジェット機のつくる飛行機雲のみが幾条もの白い直線となって残り、やがて消えていく。私たちの町からフランクフルト空港へは車で30分くらいのせいか、この飛行機雲の絶えることがない。
このころのある日、私たちのWohnungのブザーが鳴った。誰だろうと玄関口に降りて行ってみるとE大学の素粒子論の研究仲間である、Eさんであった。彼は7月8日からアーヘンで開かれる「ニュートリノ国際会議」に出席するために昨日ブラッセルに着き、すぐに飛行機を乗り継いでフランクフルトからマインツにやって来たという。
私たちは数か月ぶりの再会を喜び合った。数日して彼はアーヘンに汽車で行き、私は家族と一緒に車でアーヘンへと出かけた。学会本部で郊外に宿を斡旋してもらい、そこからアーヘン工科大学の講堂で開かれている学会へと通った。
何日目かの朝、会場の方へ歩いて行くとマインツ大学のKretzschimar教授が大急ぎでやってくるのに出会った。「どうかしましたか」とたずねると、「ヨルダン教授の講演があるのです。ヨルダン教授を知っていますか」という。「もちろん知っています。私もその講演を聞きに行くところです」と答えると、「では急ぎなさい」と言い残して彼は足早に先に行ってしまった。後からふうふういいながら会場に入り、真ん中の少し前の方に席を見つけた。会場はすでにほぼ満員である。
アーヘン工科大学のFaissner教授のヨルダン教授の紹介に引き続いて、ヨルダンの「ハイゼンベルクの思い出」と題する講演がドイツ語で行われた。内容はほとんどわからなかったが、「Drei-Maenner Arbeit(三者論文)呼ばれる著者である、ボルン、ハイゼンベルクと私は・・・」というところだけはなぜか耳に残っている。
私たちのように量子力学をすでにできあがった学問として学んだ者はもうこの三者論文を勉強したりはしなかった。しかし、『量子論の発展史』(中央公論社)の著者である高林武彦氏によれば、この三者論文とシュレディンガーの一連の波動力学の論文とはまさに横綱相撲でまことに堂々としたものであるという。
老齢のためだったのか、または、病後であったのかこのときヨルダンは椅子に腰を下ろして話をした。白髪でハイゼンベルクより長身に見えた。謹厳な風貌の人で、講演の後、聴衆の拍手に手をあげて応えられたのがいかにも印象的であった。それから数年してヨルダンは亡くなった。
ヨルダンはハイゼンベルクより1歳年下で、パウリ、ハイゼンベルク、ヨルダンの3人は引き続いてボルンの助手をつとめた。ハイゼンベルクの量子力学の着想に触発されたボルンが量子力学の数学的定式化の研究にとりかかろうとしてパウリの協力は断られたが、すぐさま年は若いが俊秀のヨルダンを口説いて彼の協力をとりつけ最初の論文「量子力学について」を夏休みを返上して完成する。そして、9月には夏休みから帰ってきたハイゼンベルクも加わって三人で「量子論についてII」を11月には仕上げていた。それと前後してイギリスの天才物理学者ディラックの論文が現れる。年が明けて1926年はじめにはシュレディンガーの波動力学と呼ばれるようになった一連の論文が出現し、量子力学の数学的形式は完成するのである。
ヨルダンの業績は他に量子力学の変換理論、星の生成、宇宙の進化等があり、また量子生物学を提唱したという。(1989.6.17)
(2023.2.8付記)
明日はシュレディンガーについての記事を載せるつもりだが、これでほぼ物理学者の連載エッセイは終わるが、あと生物学者とか医学者が一人二人残っている。さらにこの連載のエッセイではないが、他のところに書いたエッセイが2編ほどある。それがどこかにあるので、探すつもりである。