先日から、妻が知人の祖父の遺した旧満州での敗戦後の様子を記した日記というか手記をパソコンに起こしている。そしてそのために、私はその表現について原文から外れるが、表現を現代風に書き換えることの助言をしている。
なにせ、現代の私たちがわからない表現があるので、やはり現代風に表現を書き改めたほうがいいと思う。それと本当なら思考とか言い方の整理をしないと読む人にこのところは何を言っているのだろうと思わせることになるから。この点がちょっと難しい。
あまりにも書き換えるとその人らしさが失われてもいけない。それから現代風の漢字に慣れた私たちにはわからない漢字も出てくる。私が小学校に入る前のころはまだいわゆる国語辞典がないころで、字を調べるとすれば、漢和辞典を引くのが普通だった。これは漢字の画数で引くとてつもなく、面倒な辞典であった。
最近では国語辞典(私は「国語辞典」ではなく、「日本語辞典」というべきだという意見だが)もあるし、その点では言葉を調べやすくなっている。それに妻などはすぐにスマホで何でも調べる。いつも冗談で私は、妻がスマホと私の知識と競走させていると言っている。実際、そんな感じがする今日このごろである。
とにかくも最後まで錦州日記を入力したものを読んでくれと頼まれたので、昨夜1時までかかって読んだ。最終的には日本に帰れるとの記述で終わっている。
なぜ妻がこの仕事に没頭したかと言えば、10年以上前に我が家でもとてもつらい時期があったが、そのころの記録を書いておくことができなかったという悔やみからだという。私はそういうつらいときになんらかの記録を残すことのできる人は飛び抜けて優れた人だと思う。そんなつらいときのことを記録に留める心の余裕などないのが普通である。これは私自身の体験からも言うことができる。
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