物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

私のフランス語修業6

2010-05-08 13:16:28 | 外国語

フランス語の話題を続けよう。

大学院だったかそれとも大学に勤めてすぐのころだったか、NHKのラジオのフランス語講座の担当者は朝倉季雄先生だった。

その前任の前田陽一先生の講座を一年は聞いたかと思うが、はっきりは覚えていないから私のフランス語講座の先生は朝倉先生が一番初めの先生であるといってよいだろう。

朝倉先生の講義は丁寧であったのだが、覚えているのはいくつかの単語だけであって、詳細は覚えていない。もっともルネ・ラガッシュ先生の発音はとてもきれいでいつもうっとりさせられた。ルネ・ラガッシュ先生が作家で医者の「なだいなだ」氏の夫人であることは大分後になってようやく知った。

Cote-d'azur (紺碧海岸、地中海沿岸のある地方の名、いまではコート・ダズールで通じる)を知った。この綴りは確かではない。いまフランス語の辞書を引いたのだが、私のもっている辞書には出ていなかった。それとも私の辞書の引き方が悪いのかもしれない。

それ以外には人名でモザアールというのが、モーツアルトMozart だとか、ラ・ジョコンドLa Jocondというのがダヴィンチのモナリザだとかいうのも覚えた。

モナリザはLouvre博物館で1977年に見たが、近寄ってみると細かなひびがたくさん入っていた。モナリザの謎の微笑よりもそちらのひびの方が印象に残っている。人間ってつまらないことだけを覚えているものだ。まだ、Louvre博物館のピラミッドができていない頃で、工事をしていたと思う。

話がまったく飛ぶが、羽仁五郎の論文に「ジョコンダの微笑」というのがあるらしいが、このジョコンダはモナリザを意味していたのだなとわかったのは、朝倉先生の講座でLa Jocondを知った後である。もっともこの羽仁五郎の論文は読んだことはなく、武谷三男の著書「弁証法の諸問題」の中に引用されているから、知っているだけである。

最近ではhexagonalというのが、「フランス本土の」という形容詞として使われるのを知った。これはフランスが六角形の形をしていることからきている。間違えてヘクサゴナールと発音していたが、エグサゴナールというのが正しいのであろう。

hはフランス語では発音しないから。初めて大学でフランス語を学んだとき、N教授がフランス人は広島をイロシマと発音するんだと冗談まじりに教えてくれた。


私のフランス語修業5

2010-05-07 11:32:01 | 外国語

先回に引き続き、NHKのラジオのフランス語講座に関したことで記憶していることを書いてみよう。

ある年に南館先生という方が講座を担当されていた。

彼が言うにはcafe au laitと家庭ではいうが、カフェーではcafe au cremeというのだというのであった。30年以上このラジオ講座を聞いているのだが、これを他の講師の方からは注意されたことがなかった。

もちろん、cafe au laitといっても通じるから、cafe au cremeという語を知らなくても、カフェーでcafe au laitがでてこないというわけではない。

だが、営業上はcafe au cremeという。こういう細かい差異を知っていたからとどうってことはないのだが、南館先生の注意深さに感心をしたものである。

立花英裕(?お名前を失念してしまっている間違っていたなら失礼)先生の講座も丁寧で、聴いていたときは印象深かったのだが、残念ながらあまり頭に残っていないのは講師の立花先生には申し訳ないことである。

石井先生からは語末のmはnと同じ発音をすることが多いと教わった。それは石井先生の長年の教育経験に根ざしたものであったろう。

例をあげれば、「おなかがすいた」というのにJ'ai faim.というが、これをカタカナで表すと、ジェファンであって、ファムではない。これは私も石井先生のご指摘まで同じ間違いをしていたと思う。

フランス語ではaiは単独では、エと発音するが、faimではaiは単独ではなく、aimまたはainと続いている。だから発音が少し違って来る。

ところで、aiをエと発音しないのは例外的な場合だとは毎年聞くことである。faireの変化で1人称複数の「私たちは ~する」 のnous faisonをヌーフゾンと発音して、ヌーフェゾンとは発音しないことも毎年の講座で注意される。

ところで、石井先生は大学時代に作家の大江健三郎氏と東大のフランス語科の同級生であった。その年のフランス語のテクストに大江氏のエッセイが載ったと記憶している。そこには大江さんが学究の道を諦めて作家となった理由も述べられていたように思う。

しかし、私の知っているドイツ人の外交官で、ドイツのフンボルト財団の事務局長をされた、オーステンさんが大江さんにインタビューしたときにはフランス語で話をされたとオーステンさんご自身に伺ったので、大江さんのフランス語の実力は間違いがないだろう。


大竹しのぶの言葉

2010-05-06 12:02:54 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は子どもの日であったので、五十崎での河原の凧合戦を見に行った。

夜は眠りながらNHKのドキュメント「50歳からの私」(大竹しのぶ)を見ていたら、インタービューアーのちょっとぶしつけかとも思われる質問があった。

それは「どんな男性が好きですか」というものであった。どのような返事を彼女がするのかと思って聞いていたら、「才能のある人が好きです。金平糖のような」と答えた。才能があるが、ちょっと平均的ではなくて、特異なというか変わっている人という意味であろうか。

そして自分のパートナーだった人は自分と一緒に生活していると丸くなるというか金平糖のとげがなくなるようで、その人が特色がなくなる傾向にあるといった。それは、自分の至らないせいだというように言ったと思う。これはとても印象的な表現であってこの発言がどうしてか頭に残った。

もう一つ劇の稽古の途中でどうも自分の演技に納得できないときは台本を繰り返して読むというところが写し出された。これは言葉ではないが、たぶん撮影している人が意識してとった場面だと思う。

そのときに思ったのだが、台本のその箇所で台本を書いた人とか演出家がどういうことを意味していたかということと俳優である大竹しのぶとの理解というか認識に違いができることがあるのではないかということであった。脚本家とか演出家とそれを演じる俳優の解釈とが違ってもそれはそれでいいのだが、そういうときにどうするのだろうか。

もし、演出家からの指示があれば、それにしたがうしかないかもしれないが、またある場合には俳優と演出家との議論もあるのかもしれない。そして場合によっては演出家自身が自分の見解を変える場合もあるのであろう。もしそうだとすれば、俳優と演出家との間のある種の平等性があることになる。

普通には演出家の意向にしたがって、演技をするのが俳優であろうが、そうでない場合もありうるとはある種の驚きである。しかし、それが総合芸術といわれる演劇の特質かもしれないと思った。


二項定理の導出法

2010-05-04 16:06:04 | 数学

「二項定理の導出法」をいろいろ考えている。いつも私が書いている数学エッセイの一環である。

昨日エッセイを書き上げて自宅に帰って、文章を見直したら、数箇所の修正をしたいところが見つかった。それだけではなく、1乗、2乗、3乗、4乗等の展開式から、n乗のときの一般の係数を導けないかと思い出した。

そう思い出したので、ホグベンの「百万人の数学」上下(筑摩書房)や「カジョリ初等数学史」を取り出してきてヒントがないかと調べたが、どうもヒントはでていない。それで、遠山啓の「数学の広場」のシリーズの「覆面の数学II」を取り出して読んで見た。

彼はやはり工夫をして説明をしており、その説明は懇切丁寧だが、それでも私の直接の疑問に答えるものではなかった。それでもうやりようがないのかと思って、W. W. ソーヤーの「代数の発見II」(ブルバックス)を取り出して見たら、どうもこれに答えがありそうである。

この本は昨年だかにネットの古本で買ってもっていたのだが、さすがはソーヤーである。

これはたとえばx^{2}の係数が(1+x)^{0}, (1+x)^{1}, (1+x)^{2}, (1+x)^{3}, (1+x)^{4},・・・でどう変わっていくかを調べて、一般の場合の(1+x)^{n}のx^{2}の係数を求めるという。同様にしてx^{3}の係数等も求められそうである。

今日で二項定理のエッセイはもう出来上がりかと思っていたが、ソーヤーの本の該当箇所を読んでエッセイに付け加える必要ができた。

はじめの予想ではこの一番ナイーブな考えでは一般の二項定理の係数がうまく求められないと書かなくてはならないかなと思っていたが、そうではないらしいことがわかってようやくほっとしている。

(2012.6.13付記) 二項定理の導出法としては、2つの数学エッセイを私の発行しているミニサーキュラー「数学・物理通信」にすでに発表しているので、関心のある方はそれを読んでほしい。

「数学・物理通信」のバックナンバーはインターネットで検索すれば、名古屋大学の谷村さんのサイトにリンクされてある。


ブラウザーの変更

2010-05-03 11:30:57 | 日記・エッセイ・コラム
google chromeにブラうザーを変えた。とはいってもどうも主体的ではなく、googleの戦略にはまってしまったということだ。そうすると字の大きさが小さくなってしまった。もちろん画面で変更はできるのだが、どうもうまくいかない。だが、元に戻すテクニックももっていないのでそのままである。

「お気に入り」がブックマークに変わり、それがすぐにはどこにあるかわからなかった。その他のところでも変更があり、使い勝手がわるい。ただ、反応が速くなった。それはいいことである。

今日は憲法記念日なので、これから県民文化会館に行くつもりである。テニスに誘われたが、今日は憲法記念日なのでこの集会の方を優先した。

土曜日に数学エッセイの整理を始めたが、その作業の途中である。今日集会が終わったら、すこし作業を進めるつもりである。。






数学エッセイの整理

2010-05-01 14:46:46 | 数学

いくつかの書きかけの数学エッセイを取り出してきて、少し整理をしている。

また、すでに発表済みのものも原稿のプリントが残っていないものをプリントした。もちろん、パソコンにファイルが残っていれば、プリントしなくてもいいのだが、パソコンはいつ不具合が起こすかもしれない。また、バックアップをこまめにとっているつもりだが、それでも大事なファイルを誤って消去することもままある。

いつだったかはパソコンのディスクのファイルのみならず、フラシュメモリーに入れていた分まで消去してしまった。思いこみというか勘違いをいろいろなところで人間は起こす。

ずっと以前だが、ゴールドスタインの古典力学のある章の訳が出来上がっていたのに、パソコンがこわれたのか、ファイルを間違って消去したのか忘れたが、ファイルがなくなってしましい、どこにもバックアップがなかったので、結局泣く泣く再度訳したことがあった。

もちろん、一度目よりは時間的に短い期間で訳せたが、それでもその訳のファイルがなくならなければ、少なくとも3週間くらいは時間の節約ができていたことは間違いがない。

これはやはり非常勤で行っていた、M大学の講義のプリントのLatexの原稿を誤って消してしまって古いヴァージョンしか残っていなかったので、2週間ぐらいのロスをしたことがある。これはプリントは残っていたので、入力の手間だけではあったが、2週間のロスですめばまだ軽症だったといえよう。

「平方根の近似値」の求め方をまとめようと思っているが、その1がまだ完成していない。このシリーズはいくらまでつづきそうか。予想がつかない。また、2項定理の証明のいろいろもまだ完全には原稿が出来上がっていない。

それと数学・物理通信2号に書いたエッセイの続きを書いておきたいのだが、まだ手がつけられない。このエッセイはどこかに書き出しの部分があるはずだと思って昨日からファイルキャビネットや押入れを探しているが、いっこうに見つけられない。

大学に勤めていたときには、一日中探し物をして、仕事にならないこともあった。退職したときに台車で何台分も文書を捨てたが、それでも自宅に持ち帰ったものもあり、退職して5年以上たった今に至るも完全には整理がされていない。

私の自宅に持ち帰った文書等は段ボール箱にして30箱くらいであり、友人のKさんの200箱くらいだったのと比べると格段に少ない。そしていまも整理がされていないのは5箱か6箱くらい残っているだろう。妻はもうあきらめ顔だが、私としてはまだ整理をあきらめてしまっているわけではない。