物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

「超」勉強法

2012-02-11 14:43:31 | 受験・学校

性懲りもなく、野口悠紀雄さんの『「超」勉強法』のことを書く。

野口さんは「超」勉強法の3原則としてつぎの3つを上げている。

1.おもしろいことを勉強する

2.全体から理解する

3.八割原則

また勉学は意欲で進むとも言っている。どれももっともである。

この3つの原則で説明が必要なのは八割原則であろう。彼は完璧にはやらないでも八割できたら前へ進めという。これも当然であろう。

もっとも時間の余裕ができたら、そこに帰って残りを仕上げることも勧めている。

それにしても野口さんは無類の勉強好きと思える。努力家でもあるのだろう。こういう勉強法とかの本を書く人は大抵勉強家で努力家である。

以前に紹介したことがある、「知的鍛錬法」を書いた地球物理学者の竹内均さんもそうであった。

竹内さんはもう亡くなったが、彼は自分で自分を怠惰にしないために用があってもなくても文章を書くという義務を自分に課したという。なかなか怠惰な私などは見習えない。


数学「超」勉強法

2012-02-10 12:49:23 | 数学

数学「超」勉強法、そういうものがあったら知りたい。

これは数学があまり得意ではない私のような者の不届きな考えであろう。それを野口悠紀雄さんが『「超」勉強法』(講談社、1995)で書いている。

数学を神聖なものと思っている方には、不届きな考えとは思うが、世の大多数の方は私と同じような考えと思うので、ここに書いておこう。

まず、どの数学の先生も強調される、「基礎が重要だ。基礎から順に理解しつつ先に進む。わからなくなったら基礎にもどる」という考えがそもそも問題だという。これが数学を必要としている多くの人を数学から遠ざけると言う。

上に述べたモットーは普遍的なものであってうそではないが、それがもし数学を気嫌いする傾向を助長しているとすれば、私のような気の弱い者にはこのモットーの否定は勇気づけられる。

山の頂上に到達することが目的ならば、別に登山電車でも、ケーブルカーでもロープウエイでもいい。はたまたヘリコプターでもいいではないか。これが野口さんの主張である。

特に数学の成果を使う立場にあれば、その観点はうなづける。

これは数学者が数学の研究をするのとは同じである必要はない。そのために百科事典を使えという。途中の過程を省略してもよい。

上のような途中を省略した勉強法をパラシュート勉強法と呼んでいる。

このパラシュート勉強法がなぜよいか。いくつかの理由が考えられる。

1.基礎は退屈である

2.基礎は難しい

3.厳密さを気にするな

4.進んだ段階からみれば、それまでのところがよくわかる

大学受験数学に関しては3つのことをアドバイスしている。

1.受験数学は暗記である

2.計算力をつける

3.公式は導き方を覚える

ビジネスマンの数学に関してはつぎの4つを述べている。

1.数学アレルギーになるな

2.統計的な考え方が重要である

3.パソコンは恐くない

4.パソコンを用いたデータ処理が重要である

詳しいことを知りたい人は『「超」勉強法』(講談社)を古本屋ででも買って読んでほしい。ブックオフならこの本を100円前後で売っている。


百科事典の使い方

2012-02-09 12:36:45 | 学問

野口悠紀雄著『「超」勉強法』(講談社)を読んで百科事典にも使い方があることを知った。

どの家にも百科事典があるものだが、どうもそれは応接間の飾りぐらいにしか役立っていない。だが、野口さんによれば、これには数学の知識も書いてあって、自分の知らない数学の知識を得ることができるという。

野口さんはこういう百科事典による数学の学習法をパラシュート勉強法と名づけている。実際にどういう風に百科事典にかいてあるのかまだ調べていないのだが、それで我が家でもゴミとしてしか見られていなかった百科事典が日の目を見そうである。

最近、漢字クイズに妻が凝っているために日本語の辞書とは少し親しんでいるが、百科事典とは思いもよらなかった。

私は「科学の事典」(岩波書店)はもっており、これにも数学の解説もあるが、これはあまり難しいことは書いていないと思う。野口さんは例えばということで変分法について調べるというようなことを書いておられる。

少なくとも一般の科学者とか技術者とかがあまり大学とかで学ばなかった数学が必要になったときに百科事典が役に立つというのは新しい知見である。

数学者のKさんから、数学辞典(岩波書店)があれば、数学研究ができるとか昔聞いたことがある。しかし、これはかなり数学のできる人の話であり、平凡な科学者とか技術者にはこの数学辞典は役に立たない。これはもちろん世の優秀な科学者を除いての話である。

普通の科学者とか技術者のための数学事典として野口さんが勧めているのは広中平祐編「現代数理科学事典」(大阪書籍)である。内容はいいそうだが、索引が使いづらいという。私はこの書をもっていない。

そういえば、百科事典のブリタニカにはなんでも詳しい説明があるとか聞いたことがあるが、こういう高価な事典は私のような貧乏な者はもっていない。


免許証の紛失?

2012-02-08 11:54:30 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、テニスから帰って自宅の玄関の鍵を開けようとして、車の運転免許証がないことに気がついて、青くなった。

それであわてて、妻に運転を頼んで T 市の運動公園にもどってみた。そしたら、ちょうど車を駐車させていたところに私の落とした免許証を見つけた。やれやれであった。

30分くらいであろうか、免許証を紛失していたことになる。前にもテニスバッグのポケットからキーを取り出すときに免許証を落としたことがあって、そのときにはその場で気づいた。それで前からそうならないように気をつけていたのだが、昨夜はちょっとぼんやりしていたらしい。

妻から私に「貸しができた」と言われた。しかし、一般的にいうと免許証とかキーを私はあまりなくさない。ところが妻は免許証とか家のキーをなくしたことは何度かある。これは彼女が活動的であちこちに行くことが多いからである。

ともかく、免許証の再発行のために免許証センターである、松山市勝岡まで車で乗せて行ったこともあるし、家のキーをなくして、仕方なくキーを取り替えたこともある。

しかし、これらは生活をしているとある程度仕方がないリスクであると思っている。

私自身はいつでもぼんやりした性格である。それで子どもころよく物忘れをした。かさとかその他のものをよく忘れた。だから、いまあまり物をなくさないとはいっても、自慢するようなことではなく、単に私が外出をあまりしないということを意味しているにすぎない。


頼まれた用事

2012-02-07 12:55:15 | 日記・エッセイ・コラム

弁護士のKさんから雑誌の論文記事のコピーを頼まれた。これにはE大学の付属図書館まで行かなくてはならないが、自分の同じような用事もあるので、行くことにした。

前々からいくつかの書籍のコピーをしたいと思っていたのだが、なかなかその気にならなかったのだ。私はいつでも出不精である。大抵、仕事場に籠ってしまうと近くの郵便局に行くぐらいが外出の一番遠いところぐらいであり、ほとんど外出をしない。その郵便局はとても近くなのだから、普通の人が知ったら、呆れられるくらいがオチである。

もちろん、病院に月1回行くことを除いての話である。もちろん、冬だから出不精になっているということもあるが、それだけではなく、自分の性質としてそうなのである。

頼まれた用事とは面倒ともいえるが、そういう余儀なき機会を感謝すべきことなのであろう。そういう風に考えるべきだと私のような者には思う必要がある。用事を頼んでくれた方に感謝、感謝である。さあ、でかけようか。

(2012.2.8 付記) 昨日久しぶりにE大学の図書館に出かけたら、書庫の中でもし地震にあったときのために、安全な場所がマークされており、随所にそういうところが新たに設置されていた。これは昨年の3月11日以来の措置なのであろう。

また、コピー機のコピー速度が速くなっており、スピーディにコピーができた。少しづつではあるが、世の中は変わっている。

コピーをしたいと思って出かけた書籍のうちの1冊である、能代清著「解析接続入門」(共立出版)は特に私の思っていた、事項が書いてなかったので、コピーをしなかった。他の1冊は該当箇所をコピーした。

それに書庫を歩いてみると、意外に多くの雑誌を大学の図書館は購読をしており、ときどきはその文献の必要箇所をコピー等の用事で訪れることがよさそうだと思われた。

大学はいま試験中であり、学生が試験勉強のためにノートのコピー等でたくさんコピー機のまわりにたむろしていた。いつも変らぬ風景である。


英語の勉強法

2012-02-06 13:18:03 | 受験・学校

昨日、ハードオフ・ブックオフのお店に用で行った。そのときにブックオフを覗いてみたら、野口悠紀雄著「超勉強法」があった。ちらっと店頭で読んでみたら、面白そうだったので買って帰った。それで昨日はそれを読むことに費やした。

270ページの本であり、なかなか役に立つことが書いてあり、おもしろかった。いくつか感じたことがあったのだが、その中で一つだけ今日は「英語の勉強法」について書く。

野口さんの推奨する英語の勉強法は英文の丸暗記である。これは短文の丸暗記ではなくて、あるまとまったテキストの丸暗記である。中学から高校の英語ならその教科書の丸暗記がいいという。

私はこの勉強法をとったことがないのだが、実は中学校のときに塾で英語をならった老齢の先生が私たちに勧めてくれた方法であった。なかなかそれが実行できなくて結局英語は上手にならなかったが、その方法を忠実に実行していたらと今になって悔やまれる。

まあ、学校を出てしまった今となっては問題となるのはどのようなテキストを丸暗記するかであろう。そういう教材というかテキストを、特に一般人用のテキストを数冊だけ例として上げてほしかった。

これは英語ではないが、ドイツ語の関してはそういう趣旨の本が出されていた。1959年発行の万足卓著「ドイツ語への招待」(大学書林)である。この書のことを覚えておられる人は少ないと思うが、ひょっとすると野口さんもこの書を購入されたかもしれないなと思った。私と野口さんとはほぼ同年代である。

ただ、この英語の勉強法での問題はテキストがあってもそれをどのように発音するか、文章をどう朗読するかということは大事なことであって、そのための朗読した音声教材のCDがほしいところである。そしてそれにならって音読しながら、丸暗記をすればいいと思う。このごろは中学校や高校の英語テキストにはそういう音声教材がついているだろうか。

初心者用に不自然にゆっくり読まれた音声教材ではなく、普通の速さで読まれた音声教材があり、それを聞きながら優れた「外語テキスト教材」を覚えれば、いいのだが、そういうものはちゃんと製作されているのだろうか。

もう一つは英語の歌を覚えながら、英語のリズムや発音や音の落ちや語と語の音のつながり等を勉強したらよいという主張の岐阜大学の英語の先生(だった方)のホームぺージか何かで見たことがある。

これもいい方法であると私は思う。しかし、凡人の私たちにはいい教師がついていれば、できるかもしれないが、普通には実行がなかなか難しそうである。

上で外語テキスト教材と書いたが、普通には外「国」語と書くところであろうが、言葉に国は関係がないという、言語学者の田中克彦氏の主張に共鳴しているので、「国」をわざと入れなかった。


ある会社の販売戦略

2012-02-04 13:09:20 | 社会・経済

ユニクロが求人を国籍とか中途採用とか新卒採用とかにこだわらないで採用するニュースで言っていた。調味料「味の素」をつくっている会社も同じようにするとか言っている。

日本人は働く場所がだんだん制限されてくることは確かである。最低英語くらいは話さないとという雰囲気が横溢し出している。さて、若者はどうするのか。

これは味の素の販売戦略としてもう何十年か前の私たちの新婚当時かまだ子どもが幼かったころに妻から聞いた話である。その当時味の素の販売促進のためにアイディアを社員から募ったところ、味の素の瓶の蓋にある振り出し口の口径をほんの僅か大きくすることを提案した女子社員がいて、そのアイディアは大アタリで、販売が促進されたとか。一寸したアイディアではあるが、これはまさにすごいアイディアである。

別のことでは大学院生の頃だからおよそ50年くらい前のことであるが、「アジ塩」という名の味の素と食卓塩を混ぜた調味料が売り出されて、私の先生のSさんからその製品を教えてもらった後では研究室のハイキングとかの料理にもっぱらこのアジ塩を調味料として使ったので、教授のOさんに大いにあきれられたこともあった。

しかし、ともかくなんでもないことだが、こういうアイディアには驚かされる。今朝の朝食後にこの話をしたら、妻から今はコショウと塩と味の素の組み合わせで売られているよとその瓶を見せられた。

いつまでも昔のことしか知らない私は浦島太郎のようである。

そういえば、お正月のテレビ番組で日本を活気づける方法を提案した3人の方の意見が紹介されていたが、技術革新で新しいものをつくることはもちろん大切なのだが、実際に利益を生んでいるのは小さな創意工夫による製品の改善から80%の利益が出ているのだとかその一人の方が言われていた。もしそうなら、これから私たちは大いに考え直さなければならないだろうか。

ちなみに一昨日、パソコンの前に座ったら、まったく思い出せなかったブログのタネとは今日の話であった。


2012-02-03 12:42:56 | 物理学

久しぶりに雪が降った。そして数センチだが、積もった。昨夜ドイツ語のクラスから帰る途中で雪が降り出したが、はじめはあまり気にせずに車を飛ばしていた。永木橋を渡ったところから雪が激しくなったので、スピードを落として慎重な運転に切り替えた。

そして、今朝起きてみると田や畑は雪が積もっている。さすがに通りは雪はないが、庭にも雪が積もった。それで思い出すのは私が朝鮮から帰って来た幼児のときである。それは1945年の2月か3月であったが、大雪で郷里の I  市に帰ってきたときは積もった雪が溶け出していた。O市から 船で I 市の港について、そこから 親戚の家まで小母に負われて行ったことを覚えている。

その後、私の子どもたちが高校生か中学生の頃に大雪が降り、それは49年ぶりとかいうことだったから、この朝鮮からの帰郷時の大雪も記録的なものであったらしい。このときはまだ戦争時であった。

雪とか氷というと中谷宇吉郎を思い出す方もあろう。彼は北海道大学に赴任して雪の結晶研究に励む。だから雪の研究といえば、中谷宇吉郎といわれるぐらいになった。彼は寺田寅彦門下である。

戦後は雪の研究の傍ら、むしろ氷の結晶研究をされたようである。アラスカに出かけて氷の結晶を調べたりされた。その当時はまだアラスカはアメリカの一つの州にはなっていなかったと思うが、アメリカ領であった。

私は岩波書店の講演会で一度彼の講演を聞いたことがある。彼は月に人を送り込む計画には批判的だったと思う。また月の人類が行ったからといって、科学的に惑星とか月の科学が飛躍的に進んだという風には聞いていない。中谷さんは言っていた。人が月に行ったとしても行った人が帰って来て『「とてもおもしろかったよ」というぐらいですよ』と。

アポロ計画で月に人類が足跡を印した1968年ころにはもう中谷は生きていなかったと思うが、月に人が行くことは科学としてはあまり意味があるとは思えないというのはその通りであろう。

もちろん、政治的な意味やまたは人類の偉業という意味ではそれなりの意義がないわけではない。それは1957年の人工衛星の実現にかんして当時のソ連に一歩遅れをとった、アメリカの権威を示す一つのショウであったというのが真実であろう。

星野芳郎著「技術と人間」(中公新書)で、この月の月面着陸の実況中継のときに星野芳郎はどこかのテレビ局に呼ばれていて、彼も月に人が行くことには批判的であったようだが、それでも心が揺り動かされたと書いていた。


不眠症

2012-02-02 13:08:52 | 健康・病気

不眠症というのは継続的に夜眠れない状態を言うのだろうが、ときどきあまり夜眠れないことがある。そういうときに考えるともなくこのブログで書くテーマを考えている。

ところが朝起きてみるとあれほど書きたいと思っていた、テーマがなんだったかまったく思い出せないのである。昨夜がそうであった。

テーマがビビッドに思いつかれていたのに、いま思い出そうとしてもまったく出てこないのである。おかしな話であるが、これは完全に意識のある状態の話ではないので、仕方がないのかもしれない。

二つのテーマが頭に浮かんでいたような気がするが、一つの方は思いつくのだが、もう一つのテーマがまったく思いだせない。そしてその思い出せない方のテーマを書きたい気持ちが強かったはずなのに。

もう一つは以下に書くが、前にも取り上げて書いたことがあるテーマである。それは配偶者や恋人をどう呼ぶか。

先日高知に子どものパートナーのお父さんの葬儀に出かけたときに、パートナーの親戚が使っていた語であるが、それは「Tさんのいいひと」という表現であった。なかなか品のいい表現であって、その「いい人」の両親の私たちを前にしているので、こういう表現をされたのであろうが、なかなか品のいい表現で感心をしたものである。親戚の人の知的レベルが推し量られた。

普通には誰某の「彼氏、彼女」という言葉が使われるであろう。あまり日常語としては恋人とかは使わない。このごろは元恋人といういう意味で元カレとか元カノとかいう語も新聞とかテレビでも見かける。それで意味は通じるから不思議であるが、文句なく通じる。

ドイツ語ではmein Freundとかmeine Freundinというと恋人のことである。直訳は私の友だちということであるが、Das ist  meine Freundinと紹介されたら、どんな友だちなんですかとかとぼけた質問をしてはいけない。多分一緒に住んでおり、法律的にはまだ結婚はしていないが、それに準ずる関係なのである。

じゃあ、恋人でない異性の(単なる)友だちをどういうのかというと、Bekannte(r)というのが普通らしい。これは直訳すると知り合いとか知人であるが、普通の友だちを指すことが多い。

ドイツ語とかフランス語では自分の夫のことはmein Mannとかmon mariといい、自分の妻のことをmeine Frauとかma femmeという。mariの方に男という意味があるかはしらないが、Mannには直訳すると「私の男」となるが、これは夫の意味である。femmeとかFrauには女という意味がある。「私の女」となるが、そうは訳さないで 「私の妻」と訳する。

(注) 前にも注意したが、femmeはファムであって、フェムとは発音しない。

そういえば、日本語の夫とか妻にも男とか女の意味があるのであろうが、私にはその含意はわからない。

太平洋戦争中にいわれた標語に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」というのがあったが、それを皮肉って「足らぬは足らぬは夫が足らぬ」という軽口があったという。言い得て妙であった。

そして、その軽口には密かな反戦の意も含んでいただろうか。


漢字クイズの作者

2012-02-01 13:17:00 | 本と雑誌

ダイソーという百円ショップで妻が「漢字クイズ」の小冊子を買って帰ったとは先日このブログで書いた。その内容に関して感じたことと私の推測をここで述べる。楽しんで頂けたらよいのだが。

昨日クイズの中にどうも「法音」という語が入りそうなのだが、三省堂の新明解国語辞典を調べてもこの語は載ってなかった。それでもう一つそれが正しい答えかどうかわからなかったのだが、妻がとうとう根負けして解答をみたら、やはり「法音」が正しい答えだとわかった。ただ、法音などという語は私も70年以上生きてきて、使ったことも聞いたこともなかった。

妻は新明解には載っていないので、そんな言葉はないのではないかというから、「そうではないだろう」、辞書にはスペースの限界があるから、載っていないだけで他の辞書を見ればのっているのではないかと私は言った。

言ったことの責任をとるために広辞苑を引いてみると確かに法音は載っていた。ちなみに法音とは「説法または読経の声」だという。なかなか言葉を知っている人でないとこういう語は知らないと思う。

今朝も妻が一つ漢字クイズをやっていて、完成しなかったらしくこれはできるかと尋ねてきた。その中に「空談」というのがあった。しかし、空談という語は知らない。また「空集合なんて語があるかね」とも言われたが、こちらの方は知っていた。

「空集合」は数学用語で集合のメンバーが何もないのをいう。集合のメンバーが何もないときにもそれを集合の中に入れるなどとは数学者が考えそうなことである。

そういう漢字クイズに出された語を見ていると、このクイズの作者はなかなかの学のある方々であることがわかる。それで、私はこういう想像をした。

百円ショップの商品に漢字クイズを入れたいと思ったダイソーの社員がどこかの大学のある国語学の権威の先生のところを訪れて漢字クイズの作成をお願いした。先生は快く引き受けて自分が指導をしている大学院学生のアルバイトとしてその課題を与えた。

この想像が当たっているかどうかは本当のところはわからないが、なかなか知的な設問というか漢字がこのクイズに出てくる。私の推測は当たらずとも遠からずではなかろうか。

なお、ちなみに広辞苑によれば、空談とは「無駄話とか実現の可能性のない話」をいうとあった。一つここで賢くなったわけだが、今私たちがもっている漢字クイズは段階3で一番やさしい部類だそうである。もっと難しい漢字クイズになったら、もうお手上げであろう。