物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ブック・コーディネ―ター

2014-03-17 12:02:37 | アート・文化

3月15日の朝日新聞のbe欄にブック・コーディネ―ターの内沼晋太郎さんの紹介がフロントランナーとして紹介されていた。

世田谷の下北沢に書店というべきかどうかは知らないが、B&Bという店を開店しているという。

そこではビールが飲めたり、本を買ったりできるという。本そのもののおもしろさを伝えたいという。

この記事の中にいくつかの問いがあった。それはすべて本とは何か、本屋とは何かと関係をしているらしい。たとえば、つぎのような問いにあなたならどう答えるか。

「写本は本と呼ばれるのに誰かが詩を書いたノートが本と呼ばれないはなぜか」

「電子書籍が本ならウエブサイトやブログは本ではないのか」

「本の読み聞かせをしている人やブログで書評を書く人と書店員の何が違うのか」

上の3つの問いについて私にも簡単には答えができないが、「それなりに完結したということが本には必要なのではないか」という気がした。

いわゆる何かまだオープンというか開いているときにはまだ本とはなっていないのではないか。そういう気がする。

内沼さんも「ウェブであっても、書かれて編集されるものはすべて本になる可能性がある」と言っている。私の思ったことと同一ではないが、似通っている。

私の考えなどよりも内沼さんの考えることの方が広い観点から考えているとは思うが、久しぶりに考えさせられた。

この内沼さんがビールのコップをもって写っている写真の前の机に先日このブログでちょっと触れたデレク・ベイリーの伝記が数冊の本の一番下に見える。


電話

2014-03-17 11:29:05 | 日記・エッセイ・コラム

ときどき朝の10時ころ電話がかかってくることがある。

もちろん、私は電話にでないことにしているが、留守番電話にメッセージを残さないで切れる。

何のための電話なのか。いたずら電話かと思うことである。またはなにかのセールスの電話か。

居留守を使っているわけではないが、私に電話がかかってくることはほとんどない。

電話の用はほとんど妻の方である。そのときに、妻は何か用を頼まれることがおおいので、電話に出ない方が賢明なのである。それにこのころはオレオレ詐欺とかもあるし。

しかし、メッセージを残す必要がないのに電話をかけてくるというのは確かに緊急ではないから、電話に出る必要を感じない。

妻もいつももし必要な用事なら、メーッセジを残すだろうといっている。

こんな風だから、私には携帯はまったく必要がない。もっとも携帯をもっている人のかなり多くはあまり携帯をもっていても電話がかかっては来ないし、電話をかけるような友達があまりいないといっている。

もっとも仕事で携帯の必要な人もたくさんおられる。そして携帯の普及で公衆電話が少なくなったし、テレホンカードがあまり使われなくなった。

なんでも変遷があるものだ。


久しぶりの地震

2014-03-14 12:42:27 | 日記・エッセイ・コラム

久しぶりの地震などと書くと地震があることを喜んでいるようだが、もちろんそうではない。

しかし、日本のような地震国では地震があると言って一喜一憂していても始まらない。いかにその地震に備えるかであろう。

愛媛県西予市で震度5強の地震が観測されたので、昨夜の地震はすごかった。もっとも揺れそのものよりも揺れの持続時間が30秒以上と長かったと思う。

揺れの持続時間が思ったよりも長かったので、これは津波が来るかもしれないと思って、地震の後で階下に降りてテレビをつけて地震報道を見た。

それによると松山は震度4でそれほどひどくなかったことがわかった。ちょうど深夜の2時7分ごろのことであった。

「津波のおそれはありません」というメッセージが出ていたので、3時過ぎにもう一度2階に上がってベットに横になったら、今度はいつの間にか寝入っていた。

妻などは全然起き上がることもしないで、そのまま寝たままだった。東京の親戚から今朝お見舞いの電話がかかっていた。

11年前に芸予地震があったときE大学の卒業式の日(3月24日)であったが、それが済んでゼミの卒業生に卒業証書を渡したあとで、自宅に帰っていて、居間で地震にあった。

このときは庭の灯篭が大きく揺れたので、これはこの灯篭は倒壊すると思ったが、この灯篭はとても大きく揺れたが、倒壊はしなかった。

背の高くない灯篭の方はそれほど揺れなかったのに倒壊をしてしまい、結局、庭師さんに頼んで元に戻してもらわなければならなかった。

この経験から揺れが大きくても必ずしも倒れるものではないのだということを経験した。

これはこの地震報道でわかったことだが、NHKの松山放送局の報道部には女性がたくさん勤めているということであった。

深夜であるから一時休憩をとっていたかもしれないが、少なくとも3人ひょっとすると4人の女性が詰めているということを発見した。男性も3人くらいおられるように見えた。

全員が正規職員ではないかもしれないが、女性の進出がマスコミの分野においては進んでいる。


handwave

2014-03-14 11:29:43 | 外国語

昨夜、読んでいた英語の文書にhandwavyという語が出ていた。

よくわからなかったので、コタツの上にいつもおいてある、学習英和辞典を引いてみたが、載っていない。

それで岩波の英和大辞典を引いてみたが、載っていない。どうも前後関係から判断するとわかりにくいことを説明するとかそいう言った意味かなと思った。

今朝、妻に聞いてみたが、そんな語を知っているはずもない。それでもgoogoleで検索をしてくれたが、的確な意味を日本語で示したものがない。

googoleで検索した、英語での説明を示してくれたが、それを読んでも意味がわからない。どうも動詞が足らないのではないかと思った。

仕事場に来て、小学館のプログレッシブ英和辞典を引いてみたが、やはりかなり現代語の説明がのっているはずなのに、載っていない。

ただ、英語では力学のテキストにhandwaveと名詞で使われている例がある。この後でもう一度インターネット辞書を引いてみよう。


2500回ブログ達成

2014-03-13 12:56:47 | デジタル・インターネット

コツコツ書き溜めてきたブログもこの回で2500回を達成した。

一年にブログを書ける回数は300回がいいところだろうから、足掛け9年での達成は結構私が勤勉であることを示している。

幸いなことに余り病気をするということもなく、いままでは日曜日を除くほぼ毎日ブログを書くことができた。

今日のように3回目のブログを書いているような日もあることはあるが、それはまったく例外である。

大体一日に一回のブログである。それに私の方の理由でなく、パソコンが何等かの理由でダウンしている時期も何回かあった。

平均すると一日100のアクセスがあれば、すごいアクセスがあったねというくらいの数しかアクセスがないが、それでも楽しみにしてみて下さる方もおられるので、元気な間は今後も続けていきたい。


確定申告ができるか?

2014-03-13 12:43:30 | 社会・経済

e-taxで一昨年まで簡単に所得税の確定申告ができたのだが、昨年からパソコンのOSがwindows8になってからe-taxで申告ができなくなってしまった。

それで昨年は仕方なく書類を印刷して税務署にもっていった。一昨年までに比べて税務署に行くだけ面倒になったが、それでも書類を直ぐに受け付けてくれたので、それほど難しくはなかった。

今年もパスワードに問題が起こったのか、処理が通らない。これはwindows8になったせいであるらしい。

それで再来年くらいには制度がしっかりするであろうから、それまで待つことにして今年も書類を印刷して税務署にもっていくつもりである。

だんだん還付金が少なくなってe-taxをはじめた最初は2万5千円近くあった還付金が昨年は1万5千円を切った。多分今年はもっと減るであろう。

財源が乏しくなって政府(特に財務省)はいろいろな控除を減らして税収増を図っていることはひしひしと感じられる。

それでも1万円あれば、5千円の本を2冊買うことができるので、今年も政府の妨害工作に抗して還付金の請求を行うつもりである。

これはwindows8のせいばかりでもないだろうというのが、妻のいい分であり、たぶんその考えはあたっていると思う。

だって、パソコンでのe-taxが面倒だという理由で還付金の申請をする人が減ってくれれば、少しでも国家の財政にプラスになるからである。


1週間のベストアクセス

2014-03-13 12:25:10 | 日記・エッセイ・コラム

この1週間のブログへのベストアクセスは1位は「日本の希望はどこに?」であり、つぎが昨日書いた「吉本隆明全集の発刊」である。

これはどうもPRとしての晶文社の策でもあるかもしれないが、それにしてもアクセスが多いということは世間の人の注目を集める内容だということだろう。それは別に悪いことではない。

「吉本隆明全集の発刊」よりももっと長い期間で得たアクセス数であるが、「日本の希望はどこに?」が多かったのは世間の方々が結構現在の日本を閉塞状態にあると感じているからでもあろうか。

その割には私の書いた内容が役に立たないことには、ちょっと後ろめたいが、それはお詫びするしかない。

このブログは世間に媚びるつもりは全くないし、その必要を今まで感じたことはない。どうせすごくマイナーなブログであるから自由に書かせてもらう。

それにこのようなマイナーなブログにまで圧力がかかるようだと言論の自由は他ではもっと制限されているだろう。

そういう風な事態は想像をしたくもない。


計算の紙片

2014-03-12 12:30:28 | 数学

もう研究をしてはいないので、大量の計算をするということはない。

だが、じゃあ何もしていないかとそういうことはなくてプリントをし損ねた紙の裏にちょこちょこと計算をすることが多い。

その計算は思い通りはいかないことが多い。それでもときどき計算の筋が通ったときには別のレポート用紙に計算を清書するのが普通であるが、そういう風に筋が通ることなどまれである。

だから、それらの紙片は結構時間が経てば増えることになる。もうこれは何の役にも立たないと思って捨ててしまうものもあるが、私は計算が下手であるので、計算をまとめた後でもその草稿の紙片を捨てないでとっておくことも多い。

文書としてまとめた後でもその文書を読み直していて、書き写しのミス等が往々にしてあるので、そのときにすぐ訂正できればいいという考えからである。

そういう次第であるから、計算の紙片が私の机からなくなるということにはなかなかならない。それで一定の時間が経つと、これは机のごみになるから最近はフォルダーを買ってきて、それにファイルしている。

計算の草稿であるから、あまり後で見ても何を計算したのかわからないこともあるが、その量は一年にはフォルダーの2,3冊分くらいにはなる。

こんなことをすると私が死亡したときに家族がその処理に余計な手間をとられることは事実であるが、なかなか捨てられない。

書籍が邪魔者だと妻にいつも言われているが、それだけではなくこういった計算の紙片も結構大変であろう。

もっとも私が生きている間は意味があるけれども死んでしまえば、意味がないから、きれいさっぱりごみとして廃棄できるなら家族はせいせいするであろう。が、それを廃棄処分にしなければならないという、無駄な仕事を残すことになる。


吉本隆明全集の発刊

2014-03-12 10:37:37 | インポート

昨日の朝日新聞によると吉本隆明全集が晶文社から38巻の予定で出版されるという。

おめでたいことであるが、私などが考えると吉本隆明氏よりも武谷三男氏の方が思想的に重要のような気がする。

しかし、吉本さんが世間から評価されているということだろう。これはなかなか理系の方は世間からの評価が難しいことによると思う。

武谷は勁草書房から『武谷三男著作集』全6巻と『武谷三男現代論集』全7巻が出版されている。他にも私がまとめた「武谷三男博士の著作目録(第4版)」(『素粒子研究』電子版)では寄稿をした短いエッセイ等も含めて231件ある。

最近、また資料集として再刊されたものもあるようなので、第5版をつくらなければならないのだが、まだつくっていない。それに中国語訳されたものもあるのだが、それはまだ手に入れてはいない。

話が文を書いているうちにそれたが、新聞記事によれば、吉本隆明全集の総経費は2億円だと見積もられている。なんとすごい費用がかかることだろうか。

これではなかなか全集など出版できないはずだ。

私だけの意見ではないが、羽仁五郎だとか全集が発行されたらいいのにと考える学者は武谷以外にもいる。

私が肩入れをしている、もう一人の学者である、数学者の遠山啓の方は『遠山 啓著作集』(注)が太郎次郎社から出版されているし、いまも多くの出版社から前著の復刻版やその他の書籍が出版されている。

ところが武谷三男の方はインターネットの古書販売である、「日本の古本屋」でも遠山に比べて半分くらいに数である。

これは何を意味するのか。日本人の物忘れの早さには驚いてしまう。

遠山は自分の活動の場として数学教育協議会をもっていたし、晩年には数教協の活動の大部分を銀林さんにまかせて、雑誌「ひと」を活躍の場とした。そこで書いた文章も多く、それに感動した多くの人がいた。

ところが武谷は雑誌『技術と人間』等への寄稿はあるものの、そういう意味での自分の発表の場をもっていなかった。そこらが遠山とはちがいである。

(注)遠山啓著作集は 数学教育シリーズ(全14巻), 教育論シリーズ(全5巻),数学論シリーズ(全8巻)からなる。


あおぞら文庫

2014-03-11 11:31:13 | 本と雑誌

あおぞら文庫というのがあって、そこで死後50年を経て著作権がきれた、作家の作品を読むことができると妻に言ったら、まずスマホでそれを読んでみようとしたらしい。

が、どうも画面が小さくて読みにくいということでtabというのを買い込んで最近読んでいる。

夏目漱石の「坊ちゃん」は直ぐに読んだが、つづいて「吾輩は猫である」を読んでいるが、これはなかなか長くてまだ数日たつが読み切っていない。

その中に首吊りの力学というのがあるだろうと言ったら、そこを先日読み上げてくれた。

読み上げてくれたのを聴いただけではすぐに理解できたわけではないが、要するに数人の死刑囚を同時に並べて吊るすというときの、ひもにかかる横方向の張力が等しいというような式を立てているらしい。

この話は寺田寅彦がモデルと言われる寒月君の話を漱石が書いたのだが、このときにこの小説に出てくる数式に対する反応がおもしろい。クシャミ先生とメイテイさんは数式が出てくるとそこら辺は適当に飛ばしてとかなんとか言っている。

これが一般の人の数式に対する反応だと思って苦笑した。私などもときどき数式を含んだエッセイを書くことがあるが、一般の人々の反応がおもしろい。

あなたのエッセイの数式のないところだけ読みましたとか、言う方が大多数なのである。最近ある方に「ドイツ語圏とその文化」1号と2号を送ったら、その人は一般の人なのに、「私は数学が得意です。読んでみます」と返事が来たのだ。

こういう例は極めて少ない。

「社会には二つの文化がある」と言ったのはイギリスの文明評論家であったスノーであった。かれはケンブリッジ大学で物理学を学んだ方なので、もちろん数式を解する人である。

私の子どもが5年間の会社勤めで数学をすっかり忘れていたと言っていたから、かなり長い間、それも大学まで含めた学校で数学や数式を含んだ学問を学んでもすぐにそういうことを忘れてしまうものらしい。

あまり人のことばかりを言うことはできない。高校時代にきちんと覚えたはずの因数分解の公式がこの年になって来ると怪しげになってきた。

それで、1年くらい前に「因数分解の公式を忘れたら」という数学エッセイを書いた。


デレク・ベイリー

2014-03-10 13:31:24 | 音楽

昨日の朝日新聞の書評で「デレク・ベイリー」(工作舎)という音楽家の伝記の書評があった。

私は音楽に暗いし、ましてやデレク・ベイリーという音楽家を知らない。この書評で関心をもったことはインプロヴィゼション(即興)ということに関してである。

ベイリーはイギリス生まれのギタリスト(1930-2005)である。フリー・インプロヴィゼションと呼ばれる特異な音楽の創始者の一人である。

ジャズのアドリブとは全く異なる「即興演奏」の可能性を発見し、追究し始める。それは過去には存在していなかった決定的に新しい音楽だったという。

ベイリーいわく。『インプロヴィゼションであるからといって、それは出鱈目とは全く違う。ギターであれ何であれ、その楽器に徹底的に習熟した上でそれを乗り越えるようにして、あるとあらゆる「音楽」の起源に潜在する一度切りの「自由=フリー」に賭けること。「フリー・インプロヴィゼション」とは「世界」に向き合う「自由」のレッスンでもあるのだ。』

私の関心があるのはジャズの即興とどう違うのかとかいうことである。ここではジャズの場合にはアドリブと表現されているがどう違うのか。そういうことである。これはここで、読んだ範囲ではわからない。

ベイリーが出鱈目とは違うとはいうが、擬似乱数をつくることを考えるときにこの出鱈目とは何かがよく考えるとわからないというか、なかなかランダムであることが難しいことを擬似乱数をつくることを考えた人はよく知っている。


安全神話

2014-03-10 13:08:42 | 科学・技術

安全神話が崩れるということは原発の安全性についてはもう経験済みである。

チェルノヴイリの原発に事故が起こった時に、日本の原発は別のタイプだし、日本の原発の技術は高いから、日本では事故は起こらない。こう言ったのは当時の原発関係者であった。

それが津波のせいかどうかはわからないが、簡単に原発事故が起こった。それを想定外というのはあまりに前言に照らしておかしい。だが、そういうことを反省した当事者を知らない。

安全神話のもう一つは新幹線の事故が起こっていないことである。これは創業以来50年以上たつと思うが、大きな事故は起こっていない。それは幸いなことである。

新幹線が原発と同様に危険なものかどうかは議論があるところであろう。私なども新幹線にハラハラして乗ったりはしない。しかし、星野芳郎の言を借りると危険はその速さの2乗に比例する。

なぜかと言えば、運動のエネルギーは速さの2乗に比例するからである。新幹線ということで思い出すのは武谷三男が新幹線が危険だと思って乗らなかったことである。

そういう話は知っている人はあまりいないと思うが、武谷は技術を過信する人ではなかった。

これはもう亡くなったある哲学者の先生から聞いた話であるが、この方は武谷の哲学にひときわ思い入れが深い方であった。それで松山のE大学に哲学の集中講義に来てほしいと頼んだことがあった。

そのときに、断りの理由がもし松山まで行くとすれば、JR在来線に乗って京都あたりで一泊し、それから松山まで行かなければならない。

それはあまりにもたいへんであるから、申し訳ないけれどもお断りしたい。その理由が単なる理由に過ぎなかったかどうかはわからないが、武谷が新幹線に乗らないことは多分事実であろうし、彼はやむに已まれぬ時以外は飛行機にも乗らなかった。

さすがに、彼がブラジルに行ったときは航空便でブラジルまで行ったと思うが、国内では飛行機には乗らなかったではないか。

それからこれはあまり確かではないが、ブラジルであるとき数人乗りの飛行機でどこかブラジルの奥地に飛んだことがあるらしい。そのときには狭い谷に沿って飛行機が飛んだので生きた心地がしなかったとか。

外出するときには必ずいつ雨が降って来てもいいように、傘を持ち歩くほど慎重な方だったという。安全というのはそういうくらい慎重にしていいはずである。


重力質量と慣性質量

2014-03-09 20:41:16 | 物理学

ある化学系の技術者だった方が『ドイツ語圏とその文化』2号に「質量は重力に比例する物体のある属性だ」という私が書いた一文を読んで、ようやく質量とは何かの一端がわかったと言われたと聞いた。

質量は重さに比例する重力質量と、重さとは関係がない、慣性質量という考え方がある。

たとえば、摩擦のない床(注)の上に物体が置かれていて、それに力を働かせたとする。物体の重力と床からの抗力とが釣り合っているので、この物体を横側から押してやれば容易に動くかと思うのだが、そうはいかない。

それは運動を起こしにくくさせている、慣性質量がこの物体にはあるからだと考える。

このようにして定義された慣性質量は重力質量とは論理的に関係がなさそうである。

要するに、質量の考えには二つの考えがある。それらはどういう関係にあるのか。

その違いを測定する実験が20世紀の初めに行われたと聞くが、その違いは誤差の範囲でわからなかった。

それで1915年になってその二つの質量は同じものだとする、等価原理がアインシュタインによって提唱されて、これが一般相対性理論の二つの原理の中のひとつとなった。

(注)摩擦のない床など考えられない方はスケートのアレーナのような滑らかな氷の上に物体を置くことを想像してほしい。


朝食後の会話

2014-03-08 12:01:28 | 日記・エッセイ・コラム

いつも妻は忙しくしていて、朝食もそこそこに出かけることが多いのだが、今日は久しぶりにのんびりしていたので、二人で少しおしゃべりをした。

そのときに出てきた話題がブログのタネになりそうだったので、「それは今日のブログのタネになるね」と言ったのは覚えているが、それが会話が終わった後で何だったか思い出せない。

それでしかたがなくまたまた外国語の話題でお茶を濁す。

朝食を英語、フランス語、ドイツ語でどういうか。この順にbreakfast, le petit d'ejeuner, Fr"uhst"uck である。英語のfastは断食という意味をもつので、それを破るということからbreakfastが朝食という意味となったとどこかで読んだような気がする。

カーニバルFastnachtもこのFastと関係している。つぎにフランス語のle petit d'ejeuner(直訳すると小さな昼食)だが、これは昼食のd'ejeunerから来ている。

最後にドイツ語のFr"uhst"uckは何のエピソードも知らない。ただ、関係したことで言うと「明日の朝」をドイツ語でどう言うかと昔NHKのEテレビのドイツ語の放送でその当時の担当講師だった小塩節先生が尋ねられたことがあった。

「明日の朝はmorgen Morgenではないですよ」と言われてmorgen fr"uhと言われるとつけ加えられた。もっとも、このmorgen fr"uhは私のもっている辞書の見出し語には載っていない。

また、die Morgenfr"uheは「早朝」という意味だとあるが、これは収録語数が少し多い辞書には見出し語に入っている。

このときのmorgenは明日を意味する。これは副詞であって名詞ではない。だから、大文字では書かない。一方、朝の方は名詞でder Morgenである。


日本の希望はどこに?

2014-03-07 15:03:01 | 学問

大学を退職後に、大阪大学で自発的に研究を続けている友人にK君がいる。

いわゆるもう名誉の追求とかではなくて、単に好奇心を満たすために研究をしているのだ。

彼の机の隣にもこれは大阪大学を定年退職した、実験物理が専門のN教授の机があるそうだが、このNさんも同じような感覚をもっておられるらしい。

K君は日曜日を除いて、大学に出かけて研究をする。ときには大学院生の外書購読につきあっているとか。

私の友人のK君は学生のころから、才能を注目されていたらしく、実験物理学の先生から自分の研究室で、実験をしないかと誘われたことがあったとはK君から聞いたことがあったが、彼は素粒子物理学の理論の研究者になった。

大学を1年早めに定年退職した後に大阪大学が受け入れてくれて、研究場所として定めてから、もう数年になる。毎日が充実しているらしい。

また、これは私の元の研究仲間で友人のEさんもE大学を定年退職後も大学で研究を続けている。

こういう幸福な方ばかりではないであろうが、こういう方が多くいれば、ひょっとしたら、彼ら自身がbreakthroughをするか、そうでなくても彼らの薫陶を受けた若い研究者から、日本の科学の新しい成果がでてくるかもしれない。

高齢化社会も意外なところで役立つのではないかと希望がもてないでもない。