物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ETH

2014-05-17 11:32:42 | 外国語

ETH (Eidgenössische Technische Hochschule Zürich, ETH Zürich, ETHZ)(注)と聞いてすぐにチューリッヒ工科大学のことだなとわかったら、それはかなりヨーロッパ通か研究者の方であろう。

いま調べて原稿を書いている、レントゲンがこのETHの初期の卒業生である。レントゲンが入学したころにはこのETHができてまだ10年ほどしかたっていなかった。

オランダで幼少時を過ごしたレントゲンはアビトューアの資格をある事情で得られず、大学に入っても資格を得られないということからアビトューアの資格がなくてもはいれる工科大学のETHに試験を受けて合格をして入った。

もっともその後ETHではなく、チューリッヒ大学で学位を得て卒業をしている。

ETHはいまではヨーロッパの名門の大学として知られており、かのアインシュタインの卒業した大学としても知られている。

アインシュタインはレントゲンよりも10歳か20歳年下なので彼はアビトューアなしではETHには入れず、もう一度ドイツで退学したギムナジウムをスイスのギムナジウムをに入り直して、アビトューアをとっている。

もっとも試験は前年に受けて数学と物理は抜群の成績だったらしいが、古典語ラテン語、ギリシア語とかの成績が悪くて不合格となっていた。

だが、いまならなかなか合格にはできないのかもしれないが、ETHの校長がアインシュタインにギムナジウムに入ってこれらの科目を習得するように説得したらしい。そしてつぎの年には無試験で入学を許可された。

もっともアインシュタインはほとんどETHの講義には出なくて、友人のノートを借りて勉強し試験はパスしたという。

ノートを貸した友人の度量が大きかったということだろう。

そのさぼりのためにETHの助手としては残れずベルンの特許局の技師の職を友人の父親の紹介で得たという。

そのベルンで2005年に大きな3つの論文を出して、一躍世界にアインシュタインの名が知られるようになった。

ベルンは河沿いの美しい町である。1976年の春にここを鉄道で通り抜けたが、実際にこの街を訪れたのはその数か月後の8月の終りのことであった。

(注)Eidgenössischとはいま辞書を調べると「スイス連邦の」という形容詞だと分かった。読みをカタカナでつけるとアイトゲノッシュシュとでもなろうか。アイドではなく,アイトである。

ノーベル賞受賞者を20人以上出しているとWikipediaにある。


prodigy

2014-05-16 10:50:52 | 日記・エッセイ・コラム

ex-prodigyというタイトルの自伝があった。

天才学者といわれた、ノバート・ウィーナーの自伝である。英語のexというのはよく先夫などというときに、ex-husbandという。

prodigyは天才児、神童という訳が辞書を引くとついているから、だから、ex-prodigyは元神童ということである。

彼はMIT(マサチュッセツ工科大学)に勤めていたのだが、この自伝ex-prodigyの中だったかもう一つの自伝の中だったか忘れてたが、このMITに就職の世話をしてくれたのが父親の友だちだったと書いている。

そして、いまではMITといえば、アメリカの優れた大学の一つということになっているが、ウィーナーの勤め始めたころはそれほど権威をもっていなくてウィーナーの自尊心を傷つけるくらいであったらしい。

これは現在の評価とは大いに異なるものであるが、大学でも設立後あまり年数が経っていないときにはあまり権威がないということも頷けるであろう。

よくこのブログでも引き合いに出す、Feynmanは大学の学部はMITであったと思う。FeynmanはMITの大学院に進むつもりであったらしいが、物理の先生の一人であった、Slaterは他の大学の大学院へ進むことを勧めたという。

このSlaterはいくつかの物理のテクストの著者としても有名である、あのSlaterである。「理論物理学序説」Introducton to Theoretical Physicsという題の本が一番よく知られている。

単振動の方程式をべき級数の方法で解いていたが、その部分をいつか自分の講義の中で用いたことがあった。

話はとぶが、「バラの名前」というイタリア人科学者のフーコーだかが書いた小説が映画化されたときにSlaterという名の当時はまだ若かった俳優が出演していて、この物理学者のSlaterとは縁があるわけではないであろうが、親戚かなと思ったりした。


bとdとの区別がつかない子ども

2014-05-15 12:57:51 | 日記・エッセイ・コラム

b と d との区別がつかなかった子どものことを琉球大学の数学のO先生が雑誌『数学教室』(国土社)の6月号で書かれている。

これはOさんのカナダでの経験だが、実際に私が小学6年生のときに経験したことでもある。b, d と p とは私にはなかなか区別がつかなった。

もともと私は左と右との区別がなかなかできない方なのでそういうことに照らし合わせば、別に取り立てて不思議なことでもない。

Oさんの書かれた記事を読んで私は苦笑してしまった。ヤンという名のカナダの子どもが b と d とが区別ができなかったのであるが、彼はポーランドからの移民の2世の子どもである。

だから、b と d とが区別がつかないのもある程度はしかたがないかもしれない。

私が小学校の6年生になったときにローマ字の授業時間でローマ字で書かれたテキストを朗読するということをさせられた。

それで前の日に声を出して読む練習をするのだが、この b と d と p とが出てくるとごちゃごちゃになって何と読むのかわからなくなる。

毎回、そばにいる母にその字の読み方を確認しなければならなかった。

もっともそういう朗読の練習をするということで自然と b と d と p との区別がつくようになった。

しかし、昔の私のような子どもがいるのだという、ある種の普遍性があることを知った。

(付記)右と左の区別がなかなかつかない人がいることは私に起きた特殊な現象というわけではなさそうである。有名な物理学者の Feynman もどこかで自分には左右の区別がつかなかったと述べておられた。

ある方に「自分には左右の区別がつかない」と言ったら、幼少時に左利きを右利きに修正されたのではないかと即座に言われたことがある。そうかもしれない。

そういえば、私の子どもの一人も字は右で書くがボール投げたりするときは左利きである。私も中学校くらいまで休み時間に友だちと相撲をとったりするときは左手で投げを打つのが普通だった。

2年ほど前に肩を痛めて数か月間、整形外科に通ったが、そこで握力検査をしたら、左手の方が握力が強かったので検査してくれた看護師さんから「利き腕は右手ですよね」と不思議がられた。


ブログを書くのを忘れて

2014-05-14 18:29:03 | 日記・エッセイ・コラム

ここ1週間くらいはしなければならない仕事があるので、ブログを書くことがあまり楽しくない。

本来、私は下らないことをグダグダ書くのが好きなのだが、それよりもすることがあると我を忘れて仕事をしてしまう。

これはあまり頭を使わない仕事なのでしてしまうのだろう。もしこれが頭を使う仕事なら、疲れてしまうはずだ。

唐突だが、政治としては気がかりなことは集団的自衛権の行使を憲法解釈を変えることによってできるようにするということが一番大きな気がかりである。

安倍さんは国家秘密保護法といい、集団的自衛権の行使を憲法解釈を変えて行うようしたいとかろくことを考えない。ところが政治の世界では一度多数をとると何でもできると考えてしまうらしい。

私などは戦争など簡単にできないと思っていたが、そうでもなさそうである。とんでもない人を総理大臣にしてしまったものだが、社会全体ではそうは思っている節がない。それが比較的高い内閣支持率に現れている。

もう世も末である。自民党の政権を早く倒さないと日本の国の将来を誤ってしまう。

ドイツなどなら、憲法裁判所が違憲とか判断するとそれが通るのだが、もうこうなると合理的な判断はまったく尊重されないらしい。

菅官房長官を見損なった。彼は苦労人だし、すこしは安倍さんの暴走を止めるかと期待をしていたのだが。


真鍋大度さん

2014-05-13 11:07:21 | テレビ番組

昨夜、真鍋大度さんのことがNHKのテレビで放送された。

彼はアーチストというのかどうかは知らないが、特異な人らしい。

今までアートでの人が見なかったようなプレンゼンテーションをする人だという。

彼は大学では数学を学んだ人であり、彼の数学のノートの一部がテレビの画面に出ていた。それをちらっと見た感じではどうも微分方程式かなにかで、ルジャンドルの微分方程式か何かのところのように思われた。

それはともかく彼のアートにおけるプレゼンというか表現の源は

テクノロジー・発想力・プログラミング

だという。特に新しいテクノロジーにどんなものがあるか常に調べているらしい。プログラミングの言語が何かは分からないが、英語で書かれていた。

番組の中で効率はと尋ねられたとき、あまり効率は良くないような雰囲気だったが、新しいものを生み出す人には効率は問題ではない。

効率を求めるところからは新しいものは出てこない。


「きょうよう」と「きょういく」

2014-05-13 10:54:06 | 日記・エッセイ・コラム

おもしろい話を聞いた。高齢の者にとって「きょうよう」と「きょういく」とか大切だという。

漢字の教養と教育ではなく、ひらかなの「きょうよう」と「きょういく」である。もちろんこんなことを考え出した人には漢字の教養と教育が頭にあってのことだろう。

「きょうよう」とは今日どこかに用があり、「きょういく」とは今日行くところがあるということらしい。

そういう人はボケないのかどうかは聞かなかったが、そういえば、「きょうよう」と「きょういく」とは大事なことであろう。

こういう一種の語呂合わせを考えつくような人のセンスのよさを窺い知ることができる。


そにどり

2014-05-12 11:03:11 | インポート

昨日、声楽のコンサートに妻について出かけた。

上野学園大学音楽部声学科の卒業生の中で松山在住の4人の方々が先生だった上村京子先生を迎えてのコンサートであった。

市民会館中ホールに結構いっぱいの観客であった。第一部はフランス語のシャンソンであり、原語で歌われたが、私には一部の言葉が切れ切れに聞き取れたくらいであった。

歌はその言語をかなりよく知っていても難しいが、このフランス語のシャンソンはほとんど聞き取れなかった。

dans la nuitとかその他の少数の語が聞き取れたくらいで、何年フランス語を勉強しているのだろうと思われた。

4人の中ではさすがにT先生のフランス語の発音がよかったと思う。ここでは優劣を論じるのが目的ではないので、イニシャルだけで失礼をする。

ちなみに「そにどり」は緑の古語だそうである。


Kitsch

2014-05-11 20:48:07 | 日記・エッセイ・コラム

新聞を今朝読んでいて、キッチュという日本語のあったので、妻に「キチュってなんだろうね」と言ったら、スマホで直ぐに調べてくれた。

なんでもけばけばしいものをいうらしい。そしてこれはドイツ語であるという。Kitschというのは男性名詞である。「まがい」ものとかそういう意味である。

kitschigは形容詞で「趣味の悪い、まがい芸術の」という意味が辞書に載っている。

実はこういうドイツ語があるとは全く知らなかった。何年ドイツ語を学んでいるのだろうか、私は。

それも日本の新聞を読んで知るなんて、なんてあほだろう。

試みに独独辞典を引いてみたら、das keinen kuenstlerischen Wert hat, geschmacklos od. sentimental ist(まったく芸術的な価値のない、趣味の悪い、センチメンタルな)とあった。


アメリカにおける自由とは?

2014-05-10 12:43:16 | 国際・政治

先日のドイツ語のクラスで、日本国憲法9条のドイツ語訳をとりあげてもらった。

そのときに講師のR氏はいう。アメリカの初期の自由とはなにか。

これはヨーロッパで迫害された宗教を信じる自由を意味するという。

現在ではアメリカでも自由をそういう狭い意味には使っていないかもしれないが、本来のアメリカにおける自由とは迫害された清教徒の信教の自由だったというのははじめて知ったことである。

彼はアメリカの憲法には幸福を追求するとはあるが、平和を追求するとはないとか目から鱗が落ちるような話をしてくれた。

R氏は私たちとはバックグラウンドがちがうので、考えとか知識とかがちがっておもしろい。

こういった、私の感心したことを朝食後に妻に話したら、Rさんもいいところがあるねと感心してくれた。

「戦争の放棄」という日本国憲法9条の概念は画期的なものであり、各国の憲法に小規模ながら取り入れられているという。

もちろん、各国とも日本の憲法9条ほどは画期的なものではないが、戦争はない方がいいことはわかっているらしい。だが、なかなか戦争放棄というところまで踏み切ることはできない。

南米のコロンビアだったか同じような戦争放棄を謳った憲法をもつ国がないわけではない。だが、それでも日本国憲法9条の影響力は国際的にも大きい。

日本でも兵器を生産している企業はあり、それなりに利益を得ているらしい。しかし、集団自衛権の認めてもあまり大幅の利益は期待できないだろうとはKさんの予想である。

それよりも戦争をしない国としての日本の国際的な信頼はとても大きいものであり、それを失うことがどれくらい大きな損害を被ることかということを精確に評価することはとても難しい。

これは私たちは日本人であり、日本人でない視点からものを見ることができないからである。

それにしても他国の人から見た日本国憲法9条とその世界的にどのように捉えられているかをおよそではあるが、想像できる必要がある。視野を広く持つ必要がある。

「なぜ戦争もできるという普通の国になりたがるのか」というのは日本の政治家の個人的な事情を除いてはとても理解できない。


パリの凱旋門(L'arc de triomph de Paris)

2014-05-09 15:06:47 | 国際・政治

たまたま現在のパソコンの壁紙がパリの凱旋門となっている。

この壁紙の写真で見ると凱旋門の上にも人が登っている。私も凱旋門を見に行ったことはあるが、凱旋門の上に人が登れることには気がつかなかった。

パリのエトアール広場にある。もっともこの広場はいまではド・ゴール広場と言われているとかである。

エトアールとはフランス語で星のことであり、この広場から道が四方八方に広がっていることから来ていると聞いている。

ここからシャンゼリゼが始まっている。あのオー シャンゼリゼ― オー シャンゼリゼ―という歌で有名なシャンゼリゼ―である。Aux Champs-'Elys’eesとは「シャンゼリゼ―で」という意味だと思う。

パリの凱旋門(L'arc de triomph de Paris)は道の真ん中に孤立しているのでどうやってあそこに行けるのかとそこに歩道にいた老人に聞いた覚えがある。passage souterrain(地下道)を使って行くのだと言われた。

つまらないことだけよく覚えているものだ。


ぼたん茶屋(東温市)

2014-05-09 12:42:07 | 日記・エッセイ・コラム

私のブログでは外国語の話題を多く取り扱うような気がしている。

それで、それに飽き飽きしている読者もいるかもしれない。それで今回は外国語には関係しない話を書く。

先日の休日に妻が東温市のぼたん茶屋ということに車で連れて行ってくれた。いまそろそろボタンの季節も終わりだが、先日行ったときはまだボタンが咲いていた。

ここでは「どぶろく ながい」というどぶろくもつくっている。私たちが行ったときも一瓶購入して帰った。

もっともまだ飲んではいない。私はあまりのん兵衛ではないからである。あまりボトルは大きくないが、価格は1500円であった。このどぶろくは発酵が進むといけないので、冷蔵庫に入れておく必要がある。

これを高いとみるか適正な価格とみるのか、それは人によろうか。私は少し高めだと思う方に属している。しかし、特に高価ということでもないだろう。

11号線から県道210 号線で少し南に入ったところにあり、旧川内町の井内というところにある。井内公民館を越えてすぐのところにある。

これからは6月いっぱいはアジサイを鑑賞できるようである。

山菜料理一人前2500円、赤そばを提供している。また10人からピザを焼いてくれるとか。これは予約が必要である。

まだ、それほど人は多くなく静かであるが、そのうちに人気が出ると人大勢来るようになるかもしれいない。

この季節だと緑も多く、絶好の休暇を楽しむことができるだろう。

ちなみにもちろんことだが、私はPR代を一文ももらってはいない。


放棄する

2014-05-08 11:30:46 | 外国語

先日、憲法9条の英訳の中にあった、belligerencyという語について触れたが、9条ということで大切なのは「戦争の放棄」ということである。

いままで「放棄する」という日本語を英語でどう言うかについて考えたことがなかった。

それで「放棄する」と英語でどういうのだろうと思い出した。例によって朝食後の妻との会話だったので、妻がすぐにスマホで「放棄する」の英語を調べてくれた。

それによると前後関係にもよるのだが、日本語で放棄するという意味で使われている語がたくさんあることがわかった。

たとえば、「(所有物を)放棄する」という意味ではrelinguish, 「(権利を)放棄する」という意味ではwaive, 「・・を放棄する」という意味ではjettison, 単に「放棄する」というときにはabdicate, desert, disclaim, forsake, renounceとある。

条文の英訳には「戦争を放棄する」というときにはrenounce warとあった。

私が「放棄する」に対応する英語として思い出したのはdiscardとabandonであったが、discardは「(カードを)捨てる」という意味だと辞書にあった。

そういえば、cardという語が含まれている。もちろん、「(不要なものを)廃棄する」という訳もついてはいる。

ちなみに憲法9条のドイツ語訳も妻が見つけてくれたが、それには

das japanische Volk verzichtet fuer alle Zeiten auf Krieg als ein souveraenes Recht der Nation

(一部の語を省略し、かつ語順を変更した)とあった。放棄するという語にあたるのはverzichtenであるが、私の覚えている日本語の意味としては「断念する」という意味であった。

独和辞書には放棄するという意味も出ていたが、auf ein Recht verzichtenで「権利を放棄する」という訳語がついていた。

このverzichtenという語はまったく思い起こすことができず、abschaffenという語くらいしか思い出さなかった。abschaffenを独和辞書を引いてみると「(法律・制度などを)廃止する」とあった。

英語とかドイツ語の私の知識の貧弱さを図らずも露呈してしまう結果となった。


朝の散歩

2014-05-07 16:46:50 | 健康・病気

先日から朝の散歩をはじめた。いつまで続くかわからない。まだ1週間とかそのくらいである。

先日、小学校に行ったら健康チェックをしており、そこで靴下を脱いではだしである検査機の上に1分間くらい立っていたら、チェックをしてくれるというので、そこに呼びこまれた。

そして検査項目がプリントされた紙片ができて、それを見ながら、アドヴァイザーから「あなたはあまり歩かないのですか」と言われた。「はい」と言うと脚の筋肉が少ないので歩いた方がよいと言われた。

それでそんなものかと思ったが、脚の筋肉が衰えているというのが気になったので、朝40分くらい歩くことにした。

私は大体が朝が起きるのがあまり得意ではない。私くらいの歳になると大抵の人は朝早く目が覚めてしかたがないとか言われるが、私は夜寝るのが12時半頃なのであまり早くは目が覚めない。

それでもこのころは歳のせいか6時半くらいに眼が覚めることもある。ということで一人で起き出して近所を散歩することにした。

もっとも世の中の人には早朝から仕事の人もおられるようで、ときどき車に出会う。

そのことについては別に気にも留めなかったのだが、3日目の散歩のときに転倒してしまった。あまり車の通るところではなかったので、交通事故には会わなかったが、これが車の通る道であったならば、そのとき不幸にも車にひかれたかもしれない。

それで、つぎの日からは車がどこか遠くからやって来る音を聞いたら、道の端の方に寄ってあまり動かないように気を付けることにした。

健康のために夕方とか夜に散歩をする人もいるが、やはり夕方は朝に比べて危険である。

その後、4日ほど転んではいないが、気をつけないといけない。転んだときも自分では転倒をするとは思っていなかった。

転んだときに両手のひらで体を支えていた。左手の手のひらに軽い切り傷ができたのと、後でパンツを脱いだら左膝に切り傷がついていた。

足が十分に上がっていないので、ちょっとした突起に足をかけてしまったのだ。

知人には1時間くらいも歩くという人がいるが、私のはまだほんの30分から40分くらいである。散歩の道順はだんだん決まって来つつあるが、それでもそのヴァリエーションはいくらでもある。

いまのところに住むようになって40年近くとなるが、近所のことをほとんど知らなかったことに気がついた。


半規管と耳石

2014-05-06 10:35:50 | 健康・病気

妻の友人の耳石が動くので、めまいがするという話を聞いた。

それで妻が朝食後にタブレットで検索をすると半規管と耳石の説明があった。

それによると3つの半規管で回転加速度や直線加速度を感知しているらしい。初歩の物理学を知らなくては初歩の医学的知識も理解できない例の一つである。

詳しくはわからないが、空間のベクトルを3つの方向に分けてそれぞれの成分ごとの加速度とか方向を感知しているらしい。

ベクトルを3つの成分に分けてとか書かれているので、簡単なベクトルについても理解が必要である。これらは難しいものではないし、医師を目指すくらいの鋭敏な頭の持ち主ならば誰でも理解するであろう。

それはともかくとして初歩の物理とかベクトルの理解が必要な分野の例をここでも知ったわけである。

ただ、その説明の中で一つ言葉の使い方がわからないところがあった。それは「回転加速度を受容し」とか「直線加速度を受容し」とあった。

この「受容する」という言い方は「感知し」という意味かとも思われたが、日常用語と違うように感じられた。専門用語的な言い方なのかもしれないが、改善の余地があるように思われた。

もっとも妻によれば、法律用語なども「思量する」などというあまり日常生活で使わない言葉があるという。

物理学の分野でも「仕事」という言葉は日常生活で使う、「仕事」とは違った別の独特の使い方をするので、あまり他分野のことをいい難いが、それでも日常用語とあまり違った使い方をするのはよくない。


いくつかの英語

2014-05-05 12:02:46 | 外国語

ここ数日で目についた英語の単語を書いておこう。

まず、5月3日の憲法集会に参加したら、そのときに参加者に配られた資料に憲法9条の英訳があってそれを読んだら、belligerencyという知らない単語に出会った。

これは何だろうと隣に座っていた妻に聞いたら、すぐにスマホで調べてくれた。「交戦状態」とか「(国家間の)戦争」という意味らしい。

これは交戦権はこれを認めないという9条第2項のところの訳である。

これは聞いたことがないという単語ではないが、renounceという語もあった。これは「(公式に)放棄する」という訳が辞書を引くとついている。

戦争放棄を述べた第1項のところにあった。

昨日のことであるが、日曜日ということで朝日新聞のglobeという紙面を見ていたら、self-help(自己啓発)とかfacilitator(進行役)という語が出ていた。

selp-help(自己啓発)という語は本来はいい語なのであろうが、現在では自己啓発セミナーなどといういかがわしいものもあるので、あまりいい感じがしない語である。

フランス語を少し学んだ人なら、difficileとかfacileとかを知っているであろう。difficileは英語のdifficultに対応したフランス語であるが、facileに対応した英語は私は知らない。

それでも英和辞書を引いてみたら、facileという英語がちゃんとあった。訳は「容易な」とか「(動きが)軽快な」という意味が出ている。

だが、いままでfacileはフランス語としては知っており、また英語のfacilitateは知っていたが、facileという語があるとは知らなかった。