物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

楽しく生きる

2015-01-16 12:28:08 | 日記
人生には「知恵をもって楽しく生きる」ことが大切である。いかにもいつも楽しそうに何かをしているのは私の妻である。

子どもたちが小学生のときに一緒に算数の宿題を解いていたりしても、いかにも楽しそうにこどもと話をしながら解くのである。

ちょっとした手芸をしているときでも、料理をつくっているときでもひょっとしたら、食事の後片付けの皿洗いをしているときでさえも楽しそうにしている。

私などもそれを手伝えば楽しいのではないかと思わせるほどである。このような考えができる人には苦しいことはあまりないに違いない。

人間誰でも人には言えない悲しみとか苦しみもあったりする。だが、その苦しみを嘆くことよりもそれを楽しいことだと思う方向に考えを転換ができる人には人生は楽しいに違いない。

妻の友人に最近離婚して出身の東京に帰った人がある。どこかに勤めて自分の生活費を得ているのであるが、この人にはまわりの人まで変えてしまうという特性がある。

以前は私たちの住んでいる町にいたのだが、ある職場の料理人になったら、それまであまり料理人としての経験もなかったのに瞬く間に調理師の資格をとったし、職場の雰囲気まで明るく変えてしまった。

またあるときはある機械を製作する、会社に勤めていたのだが、経理の会計ソフトの使用法をまたたくまに会得してその会社から30万円の給料で正社員として勤めてくれないかと言われたほどである。

そういう人にとっては人生は苦しいどころか楽しいことの連続にちがいない。そしてその人はもう60歳に近いと思われるのだが、奥様を亡くされたという男性の新しい恋人を見つけられたとか聞く。また、そういう女性と親しくなる男性の眼も高いと思う。

そして先日妻がその人に久しぶりにあったら、スペイン語を勉強してスペインに行くのだと言われていたという。驚くばかりのバイタリティである。

私たちには別にこの人のようなすばらしい生き方ができなくてもその数分の一でもいいから、前向きの人生を楽しむことができたらいい。

Die W"urde des Menschen

2015-01-15 11:56:13 | 日記
Die W"urde des Menschen ist unantastbar. (人間の尊厳を冒してはならない)と昨日の朝日新聞の1面の写真に出ていた。これはベルリンはブランデンブルク門前での反イスラム運動への抗議の意思表示のデモの人たちが掲げたデモの横断幕のスローガンである。

この文章ではじめてdie W"urde(尊厳)という語を知った。他にもantastbarという語も初めて知った。私のもっている辞書にはantastbarという形容詞は出ていないが、さすがにantastenという動詞は載っていて、「(人・物に)触れる」、「権利・自由を)侵す」「(名誉・品位を)汚す」という訳語が載っている。

否定を表すunと可能性を示すbarがついているので、unantastbarで「冒してはならない」と訳がつけられている。

こういう具合でここ数日の朝日新聞もヨーロッパの情勢を色濃く反映している。普通には英語は日本にはあふれているけれどもフランス語やドイツ語が身近であることは少ないのだが、ちょっと情勢がちがう。

おかげで私のブログのテーマにも事欠かない。

Gouter de Roi

2015-01-15 10:55:13 | 日記
Gouter de Roi(グテー・ド・ロワ)とは文字通りでは「王様のおやつ」であろうが、お茶会のことだとガトー・ラスク(Gateau Rusk)というお菓子の入っていた包装に印刷されていた。

昨日久しぶりに妻がわが家で「帽子を縫う会」を開いたので、それに来た人がおやつにガトー・ラスクをもって来られたという。朝食後にその残りを試食させてもらった。

そのときに見るともなしにその包装を見たら、冒頭の説明が書いてあった。もっとも私のもっている仏和辞典にはGouterのところに「お茶会」という用法は載っていない。

フランス語でgouterというと「味わう」とか「味を見る」という動詞である。これが名詞として「おやつ」という意味があるとは知らなかった。

prendre un gouterというと「おやつを食べる」という意味だとか、heure du gouterは「おやつの時間」だという。
もっとも日本ではおやつの時間は午前10時または午後3時であろうが、フランスでは午後4時だと辞書にはある。

重いコンダラー

2015-01-14 11:45:34 | 日記
これはすでにこのブログに書いたことがある。

甥が小さいときに「巨人の星」というアニメがテレビで放映されていた。このはじめに「思いこんだら、試練の道を行くが男のど根性、・・・」という歌のはじめの部分を「重いコンダラー」だと思っていたという話である。この場合にはコンダラ―は本人の回想によれば、昔のテニスコートとかにあった重いローラーのことだという。

「お化けはみどりなんだよねって」言ったのはこれは私の子どもである。「おお、牧場はみどり、草の海、風は吹く・・・」という歌の冒頭の部分を「お化けはみどり」と聴こえていたという話であり、この種の話は大抵誰でも持っている。

滝廉太郎の作曲した『荒城の月』の歌詞などはこの年になればわからないでもないが、たぶん小学校とか中学校とかで学んでもなかなかわからない。これは昔の歌の歌詞が文語で書かれたりしていることによるであろう。

そういった小学校唱歌でもけっこう難しい言葉が使われており、この年になっても歌の文句として音だけで覚えているのであるから、本当に意味がわかっているとは言えない。

最近はテレビとかなら歌詞の字が画面に出てくるから、そこであの歌の文句はそういう意味だったのかとわかったりする。これは70年以上日本人をしてきてもそうなのである。

R氏はもうかれこれ40年以上日本に住んでいるドイツ人であるが、大抵の日本のことは分かるが、それでも私が思うには彼は学校で古文を学んでいたり、漢文を学んでいたりするわけではないから、すべてのことを分かるわけではなかろうと思う。

それと同様なことがドイツについて私にもあるだろうと思うのである。なかなかすべての経験をすることは難しい。

Ingredienz, Zutat, Beilage

2015-01-14 10:49:13 | 日記
ドイツ語のIngredienz, Zutat, Beilageとはすべて料理の言葉として知っている。すべて女性名詞である。

まずIngredienzenは料理の材料である。またZutatenも同じようなものであるが、何かに添加した材料のような感じを持っている。

Beilageはたとえば肉にジャガイモSalzkartoffelnとか豆Bohnenとかの「付け合わせ」であろう。よくドイツの田舎のレストランに入ってFleisch(肉)とGem"uese(野菜)とあると、このGem"useには大抵Bohnenがついてくる。この場合のBohnenは普通には日本でいうインゲン豆である。

緑色であるからいかにも野菜という感じがする。

もっともingredientはフランス語でも英語でも料理の材料として同じように使うから、英語やフランス語を知っている人はすでにおなじみであろう。多分この語はラテン語の系統のことばなのだろう。

もっとも私がingredient(構成要素という意味だったろうか)という英語を知ったのは物理の本の中であり、そのときには難しい言葉だなと思った記憶がある。もっともいまでは料理の言葉として私にはありふれた日常語となっている。

料理をすることはほとんどないけれども。

数学記号は万国共通?

2015-01-13 16:12:29 | 数学
数学記号は万国共通だと思っていたが、やはり国によってちょっとした方言の違いくらいの違いはあるようだ。

先日、日本でよく使われている割り算の記号はドイツでは使われていないと、このブログで書いた。

日本で使われるsを横にしたような、三角形が相似であることを示す記号は少なくとも英語圏で使われていないことを先ほど知ったばかりである。

これは数回前のドイツ語のクラスの要約をいまつくっているのだが、三角形の相似を表すこの記号が独和辞典で使われていたので、それに対応したlatexの記号を探したのだが、どうもlatexのマニュアルどこにもないのである。

あわてて、英語で数学の数式や図形等を表現した辞典を探したら、そこにこの日本で使われている相似記号は、少なくとも英語圏では使われていないとあった。道理でそれに対応した入力記号がlatexのマニュアルのどこを探してもないはずだ。

3乗根とか4乗根の入力記号も探したが、これの専用の記号はないが、これはしかし入力方法があることがわかった。私も数学エッセイを書くときに、今まで多くの数式を入力してきたが、3乗根とか4乗根を入力する必要性はなかった。

ほとんどの数学記号が万国共通であることはまちがいがないが、それでもすべてが共通ではない。こんなことは数学の理解を妨げるほどのことではないけれども、文化の違いを感じるところでもある。

世界ではイスラム教とか仏教とかいった宗教間の食い違いとかも結局あるだろうが、要するにそれを克服する方法を、お互いに見つけることが必要であるし、またそれはできると信じている。文化の違いとか言葉の方言の違いくらいのことなのだから。

最近は

2015-01-13 11:22:40 | 日記
あまり日本の新聞でフランス語に接することがないけれども最近はフランス語のオンパレードである。

今朝も写真でJe suis Charlie. N'oublions pas les victimes de Boko Haram.(私はシャーリーだ。ボコハラムの犠牲者を忘れないようにしよう)とか書かれたプラカードを掲げた人の写真が出ていた。

覚えていま書いているのだが、 一部は間違っているかもしれない。そういえば、昨日のニュースでアメリカの映画のアカデミー賞の表彰式があったが、表彰台に上がった人気俳優のジョージ・クルー二ーが胸にやはりJe suis Charlieという文をシャーリーエブドへの連帯を示す記章をつけていた。

こういうところが素晴らしいと思う。フランスのテロに抗議するデモにもフランス全土で数百万の人がデモに出たという。また、テロリストに対抗して射殺された警官にイスラム教徒がいたともいう。世界は宗教戦争をしているわけではなく、テロに反対しているだけだというメッセージははっきりしている。

そういえば、イスラム教だからと言って暴力を許しているということではない。

ペギーダ

2015-01-12 12:12:32 | 日記
Pegidaという団体がドイツにある。これがどんなものか知らなかった。新聞にもこのペギーダのことが載るように昨今なった。

これはすべてドイツ語である。訳にある通りであるが、wikipediaから一部をコピーしておく。

(引用はじめ)


西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者(Patriotische Europäer gegen die Islamisierung des Abendlandes)PEGIDA e.V.


Pegida |200px|alt=|2014年]]
2014年


略称
PEGIDA(ペギーダ)

標語
暴力からの解放と、ドイツの地における宗教戦争への反対運動

設立年
2014年12月14日

種類
登録社団法人 (Eingetragener Verein)

本部
ドイツ・ザクセン州ドレスデン

メンバー
ルッツ・バッハマン、トーマス・タラッカー、ジークフリート・デブリッツ、他9名

公用語
ドイツ語

重要人物
ルッツ・バッハマン

設立者
ルッツ・バッハマン

ウェブサイト
http://www.pegida.de/
ドレスデン簡易裁判所 登録番号 VR 7750
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「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」(略称:ペギーダ、ドイツ語: Patriotische Europäer gegen die Islamisierung des Abendlandes、略称:PEGIDA)は2014年10月20日にドイツに於けるデモ行動に始まった、西欧圏におけるイスラームの暴力的な活動を制することを標榜する政治団体とその活動。2014年12月現在、ドイツ国内各地での社会現象化が懸念されており、その評価については議論が続いている。(引用終わり)

私の勝手な判断だとあまり好ましい団体ではなさそうである。もちろん、この団体が節度ある行動をしている間は特に問題はなかろうが、節度ある行動が終始できるかどうかであろう。

ドイツ語のニュースにもPegidaという語が出てくるので、簡単にここでは触れてみた。

双曲的非ユークリッドの世界

2015-01-12 11:49:20 | 日記
「双曲的非ユークリッドの世界」というホームページがあり、そのサイトにはきれいな図がたくさんある。ある種の数学のサイトであるが、数学につきものの式はあまりなく、その代わりにたくさんのカラーの図があるという訳である。

その作者は佐藤忠夫さんという元技術者の方であり、この方は1929年生まれだというから、もしご健在であれば85歳であり、私よりも10才も年上である。

そこに出ていたメ-ルアドレスにメールを出して質問を出して見たが、どうも届かなかった。だからひょっとしたら、もう亡くなられているのかもしれない。

しかし、もしそうだとしてもなかなか楽しいサイトである。もっとも図とその説明が詳細を極めているのだが、気力がなくなるとその説明を読む気がしなくなる。

その辺がこのサイトの問題ではなく、読者の方にあるが、それでも楽しくて見るに値するサイトであると思う。日本ではそういうサイトが方々にあるから、文化の程度が高いと思う。

もっとも私の疑問がすっかりこのサイトで解けたわけではないのだが。

つまらない例

2015-01-10 12:47:42 | 日記
わからないことのつまらない例というのは実は私のわからないことであって、世の中の大多数の方のような秀才、才媛の方のもつようなそんな高級な疑問ではない。

たとえば、なんでもないことだが、線形代数のテキストで行列のかけ算をどうやって導入しているか昨年の12月頃から疑問に思い出した。それで、昨日いくつかのテキストをちらっと覗いてみた。

最近では大抵のテキストでは買い物リストとして、その単価が書いてあり、それに購入する個数をかけて総体の費用を計算するというような方法で行列の積を導入したり、それと同じことだが、ベクトルのスカラー積みたいにして導入している。すなわち、行列はベクトルの要素の値を列として横に並べたり、または縦に並べたりしたものと考える。

私が若いときに学んだ「代数学と幾何学」のテキストでは3次元の座標の変数変換を続けてすることから行列の積を導入していた。このことはすでに昨年の12月に調べて知っていたことだが。

もっともそういう行列の積を何らかの方法で導入するテキストばかりではない。頭から一種の決まりごととして天下りに教える風なテキストも結構多い。

それはそれでもいいのだが、もし私みたいにそれこそ行列の積の計算法を学んだ後で何十年も経ってどのように行列の積をテキストで導入していたのかなと疑問に思うようになる人もいるであろうか。

そのときにただ天下りで規則を教えるというのはまったく味気がない。

これから高校で数学に行列がなくなるとどこかで読んだが、さてどうなるのであろうか。教育の逆向でなければよいが。

新聞社の襲撃

2015-01-09 12:38:29 | 日記
日本でも新聞社の襲撃の例がないではないが、これほどひどい事件はない。

それはフランスの週刊新聞社を過激派が襲って12人の人を殺害したテロ事件である。シャーリ・エブド(Charlie hebdo)という新聞社をイスラム系の過激派の3人の若者が襲った。

18歳の少年はすでに出頭して身柄が拘束されたということであるが、主犯の二人の兄弟は逃走中らしい。ということで昨夜のドイツ語のクラスでもR氏がそれについての反応のいくつかを紹介してくれた。

イスラム系の過激派の起こした事件であり、凶悪な犯罪だが、これはもちろんイスラム教を信仰している人全体が暴力的だということではない。それを間違えてはいけないという声明は多くの欧米の政治家とかリーダーから出されているのは当然であろう。 

今朝の新聞ではこの事件の直接のきっかけになったかどうかは知らないが、1月7日付のこの新聞社の風刺画が出ていた。その風刺画の説明もあった。

イスラム系の銃を背負った過激派らしき男が

「フランスではテロが起きていない(Toujours pas d'attentats en France)」、「だが(Attendez!)」(著者が訳を付加)「1月末までまだ時間がある(On a jusqu'a la fin janvier pour presenter ses voeux)」

この訳ではpour presenter ses vouexがキチンと訳されていないが、vouは誓いとか願望であり、語尾の-xは複数を表す。presenterは示すと訳してもいいだろう。

それにしてもおぞましい犯罪である。

風刺をお得意とする、この手の新聞社としてフランスではLe canard enchain'e(鎖につながれたアヒル:ル カナール アンシェネ)が有名だという。

ところで、風刺はヨーロッパではすでに文化の伝統として根付いているという。日本でもそのような例が過去になかったわけではない。「滑稽新聞」を創刊した宮武外骨はそういう筋金入りの政治家や権力を風刺した新聞を発行し続けたことで知られている。

このことは知っていたが、外骨は入獄が4回というから相当なものである。現在の日本ではそういう前例と伝統がどこかかに忘れられているのは実に残念である。

政治権力は市民の監視があっても容易に腐敗する。だが、権力はなんとか口実を設けてはそういう風刺や批判を封じようとする。その一端が日本では国家秘密保護法である。

FederweisseとKammergut

2015-01-08 13:28:46 | 日記
いつまでたっても知らないドイツ語がある。

これは前にも聞いた言葉だが、私はすぐに忘れてしまうのが、表題に挙げたFederweisseとKammergutとである。

Federweisseは鳥の羽根が白いようだが、ここではワインの発酵が始まる前の状態だという。ドイツで秋にブドウの取入れが終り、ブドウを絞って発酵をさせる。

その初期の段階にあるブドウ酒だという。泡がたって鳥の羽根のように白いことからこの呼び方があるという。

Kammergutの方は固有名詞のSalzkammergutの一部にもなっている、Kammergutである。少しドイツ語を学んだ人ならKammerという語は部屋を意味する語ということを知っているだろう。Dachkammerとは屋根裏部屋のことである。

もっとも真偽は明らかではないが、このDachkammerは屋根裏部屋という訳語とは案に相違して部屋が冬でも暖かくて、学生とかには好評なのだとかいつか聞いた気がする。

話が主題からすぐに外れてしまった。手元の独和辞典にはこのKammergutの意味が載っている辞書は少ない。これは収録語数が少ないせいである。昔の木村・相良の独和辞典を調べてみたら、領地とかあった。今日聞いたラジオのドイツ語講座では直轄領だということであった。この場合にはもちろんオーストリア帝国の直轄領である。

こういうブログを書いても1年もしないうちにFederweisseとKammergutという語を忘れてしまうであろう。忘れて覚えて忘れて覚えてを繰り返すのが外国語を学ぶときの常であるから、落胆はしないけれども。

ラテンに学ぶ

2015-01-08 12:54:10 | 日記
昨日は「わくわく寺子屋」の素鵞小学校に参加するために8時45分に家を出たので、朝に新聞を読む暇がなかった。

今朝は十分に時間があったので、昨日の新聞と今日の新聞をよんだ後に、洗濯ものを干してからの仕事場への出勤となったので12時を過ぎた。

昨日の朝日新聞で「ラテンに学ぶ」というオピニオン欄があり、「ラテン的生き方とは陽気にのんきに今日を楽しむ、明日は明日の風が吹く」というイメージはちょっと違うのではないかという指摘があった。「希望を絶対に捨てない生き方」こそがラテンだと思うとあった。

実際にどうかは知らないが、。「希望を絶対に捨てない生き方」は日本人も持った方がいいと思うし、心ある日本人はすでに持ってきたものだと思う。

「しぶとく、めげず、あきらめない。今日はダメでも明日には何かが変わって乗り越えられるかもしれない。だからこそ『明日の風』が吹くんです。能天気に明日にまかせることではないんです」という歌手で作家の八木啓代(のぶよ)さんの考え方に希望を見るのは私だけではあるまい。

もう一人の意見表明をしたヤマザキマリさんはイタリア人と結婚した漫画家である。ヤマザキさんはいう。「実はイタリア人ほど他者を信じない人はいません。信じるのは自分の家族だけ」

姑は「ノックせずに部屋に入り、引き出しを勝手に開けて私と同じ服を仕立屋に作らせたり、私が大事にしまっておいたお菓子を食べてノドをつまらせたり」だという。

「イタリア人のように『信じない勇気』を持ってはどうでしょう」という。

もっと面白いことが書かれていたが、ここですべてを引用するのは面倒なので割愛する。関心のある方は自昨日の朝日新聞を読んでみてください。

1次分数変換

2015-01-07 13:09:11 | 日記
いままで1次分数変換に関心をもったことなどついぞなかった。

ところが最近、この変換が群をなしていることを知ったので、この変換について調べ始めている。もっとも私のもっている本では竹内端三の『関数論』(裳華房)くらいにしか、この1次分数変換のことが載っていない。

ネットで調べたところ同次座標変換もこの1次分数変換と関係がありそうなので、射影幾何学の本も昨夜ひっぱり出してきた。もっとも射影幾何学の話を聞いたことがあるのはもう50年以上も前の解析幾何学の講義であり、そのノートは友人に試験のために貸したら帰っては来なかったので、その講義ノートは手元にはない。

だから、射影幾何学についてもその記憶はおぼろげである。でもどこかで1次分数変換の詳しい説明を知りたいし、それと群との関係を知りたい。

この1次分数変換と2次のユニタリー行列の変換とが同じ変換で表されることを誰がどのようにして気がついたのかそういうことを知りたいという気持ちが強くなっている。

「なんとなく、クリスタル」は?

2015-01-06 13:32:29 | 日記
昨年末に届いた岩波書店のPR誌『図書』2015.1月号でおもしろい見解を知った。それは斎藤美奈子さんの「文庫解説を読む」6の中の文章である。

その中に田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(河出文庫)の文庫解説の話があった。

初版の発行から33年後に解説を書いた高橋源一郎はこの『なんクリ』を前に読んだことがある、カール・マルクスの『資本論』に似ているという。これは爆弾発言である。

ちょっと斎藤さんにしたがってこの箇所を引用してみよう。

しかし高橋解説は<『資本論』における「本文」と「注」の関係>に注目することで見事に論証してしまった。<社会の仕組みを冷静に「解釈」する本文に対し、左側の「注」では、その実例が熱をこめて語られ>た『資本論』。それまでの経済学者は資本主義を解釈しようとしたが、マルクスは<自分が書くものは「経済学」の本ではなく、経済学批判の本なのだ>と自覚していた。『なんクリ』も同じ。<これほど深く、徹底的に、資本主義社会と対峙した小説を僕は知らない>(引用終り)

こうまで解説されると普段は小説など読まない私でもこころゆさぶられて、『なんクリ』を読んでみたくなった。まだ書店に走ってこの書を購入してはいないが、近いうちに買って読もうとまで決意をさせた。

それでこの斎藤さんの論説にヒントを得て、昨年の11月に上梓した私の『四元数の発見』の書にいくつ注をつけたか数えてみたら、『なんクリ』の注釈の442個にははるかに及ばないが、89個の脚注をつけていた。

もっとも数十年後にしろ、私の書『四元数の発見』を文庫化しようという出版社の編集者は現れないと思うので、残念ながら私の書を『なんクリ』と比較するのはここでの単なるお遊びである。

斎藤さんの文には他にも面白いことが書かれているが、ここでは話を『なんクリ』に限った。関心がある方は直接に斎藤さんの文を読まれることをお勧めする。