弥永昌吉さんは東大教授の数学者であり、民主的な考えの方だったことは知られている。100歳くらいまで長命でもあられた。
今日、入手したブックレット武藤 徹著『きらめく知性・精神の自由』(桐書房)にはこの弥永さんについてのエピソードが書かれている。
武藤さんは1944年に東大数学科に入学したが、そのときの教室主任が弥永先生だった。この弥永さんは戸山高校の前身の東京府立第四中学校の卒業生だったが、
(引用はじめ)太平洋戦争が終わったとき、私たちのクラスは動員先で敗戦を告げる天皇の録音放送をきいたのですが、放送が終わるや否や、弥永さんは「めでたし、めでたし、これで世界の人々が、また仲良くなれる」といわれました。(中略)数日後、みなで弥永さんの疎開先を訪れましたが、「負けたのにめでたしとは何だ」という割り切れない気持ちがあったあったように思います。弥永さんは海外の経験も長く、「昭和のはじめから、軍部のやることおかしいおかしいと思っていた」と、淡々と話されました。弥永さんは著名な数学者で学生から尊敬されていましたし、もともと学生は軍部をゾル(ドイツ語で兵隊の意、ゾルダーテンの略)と呼んで軽蔑し、嫌悪していましたから、この説明で納得したようです。(引用終わり)
数学者の弥永先生は表立っては軍部に反対する行動をなさりはしなかったが、内心はきちんと時勢を見る目をもっておられた稀有な学者であった。この点は大江健三郎氏の先生であった仏文学者の渡辺一夫さんなどもそうであった。
大学時代の私の先生である小川修三さんからも小川さんが名古屋大学在学中に彼の先生の物理学者、坂田昌一さんから太平洋戦争中にも軍部批判ととれる発言「早く日本は戦争に敗ければいいんですよ」を聞いてびっくりしたという話を聞いている。小川さんはちょうど武藤先生と同じく1944年に名古屋大学に入学し、1947年の卒業であるので、全く同年代である。
こういう風に時代をきちんと見つめる方々が軍国主義一色の厳しい時代にもおられたということを私たちは知ることができるが、どの方もそのお考えはごく身近な人々にしか洩らされていないから、なかなか一般に知られることはなかった。
こういう話があからさまに聞けるようになったのも戦後70年の年月が経ったからであろうか。
今日、入手したブックレット武藤 徹著『きらめく知性・精神の自由』(桐書房)にはこの弥永さんについてのエピソードが書かれている。
武藤さんは1944年に東大数学科に入学したが、そのときの教室主任が弥永先生だった。この弥永さんは戸山高校の前身の東京府立第四中学校の卒業生だったが、
(引用はじめ)太平洋戦争が終わったとき、私たちのクラスは動員先で敗戦を告げる天皇の録音放送をきいたのですが、放送が終わるや否や、弥永さんは「めでたし、めでたし、これで世界の人々が、また仲良くなれる」といわれました。(中略)数日後、みなで弥永さんの疎開先を訪れましたが、「負けたのにめでたしとは何だ」という割り切れない気持ちがあったあったように思います。弥永さんは海外の経験も長く、「昭和のはじめから、軍部のやることおかしいおかしいと思っていた」と、淡々と話されました。弥永さんは著名な数学者で学生から尊敬されていましたし、もともと学生は軍部をゾル(ドイツ語で兵隊の意、ゾルダーテンの略)と呼んで軽蔑し、嫌悪していましたから、この説明で納得したようです。(引用終わり)
数学者の弥永先生は表立っては軍部に反対する行動をなさりはしなかったが、内心はきちんと時勢を見る目をもっておられた稀有な学者であった。この点は大江健三郎氏の先生であった仏文学者の渡辺一夫さんなどもそうであった。
大学時代の私の先生である小川修三さんからも小川さんが名古屋大学在学中に彼の先生の物理学者、坂田昌一さんから太平洋戦争中にも軍部批判ととれる発言「早く日本は戦争に敗ければいいんですよ」を聞いてびっくりしたという話を聞いている。小川さんはちょうど武藤先生と同じく1944年に名古屋大学に入学し、1947年の卒業であるので、全く同年代である。
こういう風に時代をきちんと見つめる方々が軍国主義一色の厳しい時代にもおられたということを私たちは知ることができるが、どの方もそのお考えはごく身近な人々にしか洩らされていないから、なかなか一般に知られることはなかった。
こういう話があからさまに聞けるようになったのも戦後70年の年月が経ったからであろうか。