物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

土曜日になにをしたのか

2018-05-14 11:24:47 | 日記

自分で思い出せない。ああ。

ああ、そうだった。ある署名をお願いに友人宅を回ったのだった。それでその後で仕事場に来るつもりだったが、結局来なかった。それでブログは自動的にお休みなった。

昨日は日曜だったが、雨が降るという予報だったので、土曜の天気のいい日の方が署名をお願いして回るには天気のいい日の方がいいと判断したからである。そして、昨日は久しぶりに妻と映画を見に行った。レディ・プレヤーというスピールバーグ監督の映画である。

もっとも話は頭のまわりのわるい私にはなかなかよくわからなかった。途中で子どもが誕生日だったのでお祝いの電話を入れておいた。


ボルツマンの原理

2018-05-12 12:32:06 | 物理学

を高校数学でわかるという竹内淳さんの講談社ブルバックスが出ているらしい。いつか図書館で借りて読んで見たい。

有名な朝永の『量子力学 I』(みすず書房)の冒頭の箇所にボルツマンの原理がでてくるが、あまりわからなかった。

その後、『ファインマン物理学』(岩波書店)の第2巻を読んだら、その導出ではなくて、その意義が詳しく書かれていた。私にはその印象がとても強い。ギッブス流のボルツマン分布の導出は後で学んだけれども、それよりもやはり印象に残っているのはファインマンの説明のほうである。

本来、もともとの根源的なところが気になるほうだのに、ボルツマンの原理については、このファインマンの説明の方がインパクトがあったというのは、いま考えてもおかしなことである。

だから、大学の定年前の数年間熱力学の講義をもって、テクストにはそのボルツマン分布の導出が出ていたけれども、そちらのほうを教えることよりも事実を教えることの方に重点があった。ということで、どうも偏った教え方であり、あまりいい先生ではなかったといまとなっては反省するが、それくらいファインマンの説明がよかったとも言える。


「正比例」の数学 2

2018-05-12 12:03:17 | 数学

先日、『「正比例」の数学 』(東京図書)のことを書いたが、第3章 「行列式:特殊な多項式」のところを除いて最後まで見た。読んだとは言わないのは途中あまり計算をしなかったせいもある。

だが、ある程度この本から線形代数の話の筋はわかった。普通、高校で線形代数の目的とするのは「行列の階数(ランク)」である。そこは一つの山場かもしれない(注)。昔、行列のことを学んだとき、行列のランクとはなんだか持って回ったような定義でわからなかった。

その後、大学に勤めていたころ、学生が使っていた線形代数のテクストから行列のランクが眼に見えるように書かれてあることを知ったとき、大学の数学教育もわずかだろうが、やはり進んでいることを知った。

ランクを求めるために必要な行列の変形法は「行列の基本変形」と言われており、私たちの時代には数学の時間には学ばなかったが、最近では大学の線形代数の時間に学ぶところがほとんどのようである。

この『「正比例」の数学 』ではこのことを取り扱ってはいないが、この書で取り扱わなかったこととして、行列のランクについて一言だが触れており、行列の中で独立な行(または列)の数として説明がある。

これはn元1次方程式の独立な数といっていいと、ちゃんと本質的なことが述べられてある。もっともこの書では連立方程式の一般論は述べられてはいないが。

そして、線形代数の次の目標は「固有値、固有ベクトル」である。これは物理でも応用があるので、私なども関心のある分野である。

最後は、半単純な行列の一般化としてのジョルダン標準形が線形代数の学習目標である。

こういうふうに話の筋ないしは学習の目標が設定されているところがこの本の気持ちがよいところである。

細かなところまではわかっていないが、それはまた別の機会に詳しく学ぼうという気が起こる。

何のために線形代数を学ぶかを述べた本として、「ブログとね日記」の利根川さんが、推奨しているのは竹内淳さんの『高校数学でわかる線形代数』(講談社ブルーバックス)と大村さんの本である。

こちらの方は本のタイトルは失念した。詳しくは「ブログとね日記」をご参照ください。

ちょっと最後まで曲がりなりにも目を通して感激したので、ブログをあわてて書いた。

(注)現在ではあまり線形代数を高校で学ばないのかもしれない。その辺は高校の授業に詳しくないのでお許しください。

(2018.5.14付記)ちょっとこの『「正比例」の数学』で気になったのは行列の積の定義が天下りだったことだった。ここはきちんと線形変換を続けてするということから行列の積を導入してほしかった。

行列の和は行列の対応する要素の和であるということは、まあ、あまり変な感じがしないが、行列の積はどうしてこういう積の定義になるのだろうと思う人が必ずいると思う。私などもそういうことが気になる方である。

ついでにいうと、ベクトル解析に出てくるスカラー積とべクトル積の定義がどこから来たのかは、あまり気になったことはなかった。これらは四元数の積の一部として定義がされている。 

(2019.5.10付記)もっともベクトル積の第一成分とか第二成分とかにその成分の印としての1とか2とかがでて来ないのは不思議に思ったりした。

それをやはりおかしいなどと思った人がLevi-Civitaの記号を思いついたのではないかと勝手に推量している。


「今日は何日?」

2018-05-11 10:58:14 | 日記

「今日は何曜日?」とは日常生活で聞く言葉であろう。だが、これは認知症の人のことを話題にする記事ではない。ドイツ語でこれらをどういうか。それを話題としたいのである。

昨夜、ドイツ語のクラスがあった。そのときに「今日は何日か」か聞こうとして

Welchen Tag ist heute ?

と言おうとしたが、よくわからなかったので R 氏に日本語で聞いた。

彼からの返事は

Den wievielten haben wir heute ?

であった。そう言って彼はコーヒーを買いに階下に降りて行った。それを聞いて思い出したのだが、

Der wievielte ist heute ?

といういい方もあったはずだ。

R 氏が帰って来てそれに同意してくれた。

何曜日かを聞くいい方だが、彼によれば、

Welchen Wochentag haben wir heute ?

であるという。私の記憶ではWochentagではなくて

Welchen Tag haben wir heute ?

または

Welcher Tag ist heute ?

であったような気がするが、定かではない。

それはともかくこういう表現は何十年もNHKのラジオでドイツ語講座を聞いているのだから何回か出てきたことがあるのだが、すぐに忘れてしまって肝心のときに

 Den wievieltenとかDer wievielteとかがすぐに出てこないようでは情けない。だが、講座はいつでもそういう話がでてくるわけではないので、忘れてしまうのはしかたがない。それがネーティブスピーカ―と接している者の利点であろうか。

(2018.5.14付記)ドイツ語の先生からご注意をいただいてはいないが、定冠詞がついたときの形容詞の語尾変化は弱変化であるので、den wievieltenと定冠詞がdenであれば、wievieltenとなるらしいので、修正をした。

形容詞の語尾変化はドイツ語を母語としない私たちにとって難しい。日本人のドイツ語の先生もこの点は私たち学習者には少し甘いと思う。すなわち、学習段階が進めば次第に正しくなっていくというふうに。

村田経和、インゲボルグ『標準ドイツ会話』(白水社)には

「今日は何日ですか」はWelches Datum haben wir heute ?

というのも出ている。同書によると

 「今日は何曜日ですか」 Was f"ur ein Wochentag ist heute ?  または Was f"ur einen Wochentag haben wir heute ?

となっている。この辺は R 氏にまた聞いてみたい。


花の森ホテル

2018-05-10 15:35:29 | 日記

松山市郊外の伊予市中山の「花の森ホテル」のランチを食べに行ってきた。それでブログが書くのが遅くなった。

今日は医療生協のある支部の支部総会であった。それで総会に参加する人を花の森ホテルのランチに招待してくれた。とはいってもタダではないが、1,000円で2,500円のランチを食べれるし、数時間を自然の中で過ごせるのだから、いい試みである。

本来、私は参加する予定には入っていなかったのだが、欠席者が一名出て、その補充で行くことになった。ランチを食べただけではなく、温室で栽培している、いろいろの花を鑑賞した。ブーゲンべリアという名前だけは知っていた花をはじめて見た。

赤い花を持った木である。2時半には自宅に帰れたので、いまブログを書いている。

花の森ホテルは伊予市とはいうものの、もう内子町に近いところにある。国道56号線から外れた山の中腹というか高台というかにある。レストランの形が丸くなっており、空いた方向はすべて窓であり、近くの山の緑が今はいい。

以前に一度親戚の者を夕食に連れて来たことがあったが、そのときは多分冬の夕方であり、外はもう暗くなっていてわからなかった。今日昼に行ってみるとすばらしい環境だということがわかった。ウィークデーだと客も少なくてゆっくりすることができるだろう。さすがに土日は混むかもしれないが。

 


『「正比例」の数学』

2018-05-09 10:50:23 | 数学

『「正比例」の数学』とはあまり聞いたことがないタイトルの本であろうか。瀬山士郎『「正比例」の数学』(東京図書)は2014年に発行された。

購入して読んで見たいとは思っていたが、その機会はなかった。アマゾンの書評では酷評した書評まであって、あまり成功しなかった本なのかなと思っていた。

先日のことだが、県立図書館でこの本を見かけたので、借りていたのだが、そろそろ返却の期限も近づいてきたので、読み始めた。

第3章の行列式のところでどうもこの内容についていけず 2,3 日放っておいたが、そこをスキップして次を読んだら、なかなかよい。5章まで読んだところである。

要するに、『正比例の数学』の意味するところは線形代数の入門である。できたら、私自身も同じタイトルで書いてみたいと思ったりしたことがあったが、私自身はあまり線形代数のことがよくわかっていないので、なかなか書くのは難しい。

どうして、瀬山さんと同じような発想を持っていたかといえば、それは数学教育協議会という民間教育団体があるが、そこに属している人たちにはよく知られた、「森ダイアグラム」の一部が「正比例の数学」、すなわち、「線形代数」であるというふうに述べられている(注)。

瀬山さんは数学者だからちゃんと線形代数をわかって書かれているのだが、こういう思想をことさらに強調されているわけではないので、この本を読んだ人から、アマゾンコムの書評で酷評されたのであろうか。この書評に惑わされてはいけない。この本は初歩の線形代数としては成功しているのではなかろうか。

この書のはじめに、正比例という語は小学校とか中学校では単に比例といわれているとある。

いつだったか松山の朝鮮人学校の中学校のクラスを知人の先生たちと一緒に見学したことがあったが、その数学の時間に比例、反比例を教えていた。その発音は正しくはないかもしれないが、正比例(ちょんびれ)反比例(たんびれ)であった。

反比例も少し上級のレベルのテクストには反比例ではなく、「逆比例」と書かれていたりする。英語ではinversly proportionalと言われる。

それにしても、比例から1次関数への概念が拡張されていき、私は高校に入った頃に「数学の比例はわからないでもないが、1次関数とはわからない」とか自分で思ったり、人に言ったりしていたのを覚えている。

それがまた、一般の関数の概念から、別の視点でみて、「正比例の概念へと回帰する」とは、なかなかものごとの理解は一筋縄ではいかない。この妙味を改めて知るのはいいことである。

単に、比例からそれを一般化として線形代数ができたとか単純化してみるのではなくて、数学も比例とかから、関数へと概念も複雑化し、かつ進化したのだが、それをもう一度その中から、基本になるアディアとして「正比例の概念」をとり出して考えようというのが、現在の数学教育協議会の一般に承認された数学観であろう。

一度、「局所化」して正比例の概念をとりだした「微積分学」と「多次元化された正比例」が「線形代数」へと発展して、一度別れ、別れになった、正比例の概念は「森ダイアグラム」では、大学での基礎数学では「ベクトル解析」として統合される。

数学全体は奥が深くてきりがないが、大学数学の教育の当面の目標を「微積分学」と「線形代数」を経て、「ベクトル解析」へと至る道だとする見解はもっともだと思う。

ぜひ、若い方には、この数学観を知っておいていただきたい。

(注)大学で学ぶ数学のもう一つの柱である、微積分学もやはり正比例の数学として上述の「森ダイアグラム」では位置づけられる。

こちらは局所化すれば、すなわち微小部分をとれば、「正比例している」という考えであり、一方、線形代数の方は「正比例の概念が多次元化される」というふうに考えられる。

関心を持たれた方は一度、森ダイアグラムをきちんといずれかの文献で見られたらよい。たとえば、森毅先生の『ベクトル解析』(日本評論社)を見られたい。

ちょっと余分なことだが、森ダイアグラムという名称は数学教育協議会に集う人々の間では定着しているけれども、必ずしも森毅先生の考案だというわけでもないらしい。その点については、倉田令二朗さんの『数学と物理学の交流』(森北出版)を参照されたい。

上に述べた、概念はあまり知られていないと思うが、一般の大学生にも、そういう数学観を知ったうえで、それぞれの数学を学ぶのはいいことだ。もちろん、一般の数学愛好家にも知っていただきたい。

(おわび)知った口をきいてと思われる方に一言おわびを申し上げておきたい。

「森ダイアグラム」はそれほど一般に知られているわけではないと思ったので、啓蒙のために述べた。そういうことは百も承知の方は笑い飛ばしてください。

何十年か前に高知県であった、数協教の全国大会に一度だけ参加した宿で、『「正比例」の数学』の著者の瀬山さんにお目にかかったことがある。

そのときの印象では親しみやすい、気さくな方とお見受けした。一晩、どこかの部屋で数人の方とご一緒したときである。一緒の宿泊部屋ではなかった。まだこの『正比例の数学』を著される以前のことである。

そのときに、やはりその直後だと思うが、数学者の森毅先生にも一度だけお会いしたことがあった。両先生ともお会いしたのは、この一度きりである。

大体、私は人見知りをするほうで、学会にもあまり行く方ではないから。


時計の好きな人、地図の好きな人

2018-05-08 14:37:26 | 日記

私の妻は時計が大好きである。家の中に置時計がやたらとある。もっともそれが高価だとかいうわけではないが。電池で動く、それほど高価ではないものである。私たちの寝室にも私用の小さな置時計と妻用の置き時計がある。

もっともそれらの置時計をすべて動かすには、電池の電圧に常に気をつけていないといけない。そのため、なかなかすべての時計が動いているわけでもない。

私などは大学に勤めていたときには職業上から腕時計が必須であったが、最近は腕時計は使わなくなって久しい。

あるとき、年下の友人と話していたときに、携帯をもっていないのはともかく、さすがに腕時計を使っていないというとびっくりされた。その後、ガラ携はもつようになって、最近はガラ携のデジタル表示の時刻を見ることもあるが、それすらあまりない。

あるとき、仕事場で月1回開く雑談会でレポートを頼んだ知人は自分で「地図が大好きなんです」と言われて、そのレポートをするときに世界地図のカラー・コピーを渡してくれた。彼の自宅には至る所に地図がおいてあるのだという。

彼は合気道を若いときではなくて、ある程度の年齢になってから習った人であり、合気道の縁で、あるドイツ人夫婦と家族ぐるみのつき合いであり、その夫婦が松山にやってきた時には彼の家に泊まるのだという。

たまたま、このドイツ人夫婦を私も知っているが、知っているという程度で向こうは私のことなど覚えてはいないだろう。

私たちが若いときに子どもが生まれて、お祝いをいくらか友人からもらったときに、あまり高価ではないが、地球儀を買った。子どもが将来、世界的な視野をもてるようになればいいがと思ったから。

その子どもに、子どもができたときに私と同じように子どものために、小さい地球儀を買っているのを見て、「親というものは、同じようなことを考えるのだな」とおかしかった。


耐用年数

2018-05-08 13:38:50 | 日記

製品にはなんでも耐用年数というのがある。

私が今使っている、パソコンでもそうだし、乗っている車だってそうだ。もう、来年には80歳の大台に年齢がなるので、車に乗るのをやめようかと思って、そう妻に漏らしたら、車の床が抜けて乗れなくなるまで乗った方がいいのではないかと言われた。妻の従弟が営業用に乗っていた車は最後に車の床が抜けて乗れなくなったとか。

私自身よりも、車そのものとか私という人間を信頼しているらしいことがうかがわれた。私は自分では無茶な運転はしないように心がけているし、あわててどこかに出かけないようにしている。もし時間の約束をしたとしてもその約束の幅を広くとってもらうようにしている。

あわてて、時間に間に合わせようとしたりするのが一番にいけない。ゆっくりと時間をとって慎重にすれば、あまり事故を起こすことはない。事故を起こしたことは皆無ではないが、起こしたときには決まってなにかあわてていあるときだ。幸いなことにあまり大きな人身事故は起こしたことはない。

そうだった。耐用年数について書くつもりだった。パソコンは大学に勤めているときに耐用年数が5年とか聞いている。確かに運がよければ、5年も6年も使えるパソコンもあれば、早々に故障して使い物にならなくなったパソコンもあった。これはやはり私の研究室で、自分か使うパソコンだけではなく、学生が使う専用のも何台か購入した。その数を数えたことはないが、たぶん10台は越えるであろう。パソコンが出始めた、最初のころは大分当たり外れがあった。そのうちに製品が安定してきてなかなか故障を起こさなくなった。

ただ、5年を過ぎるといつ故障して使えなくなるか誰も保証ができなくなる。パソコンの製造会社も適当にパソコンが壊れてくれないと、商売が上がったりなのだろう。そして、乞われたパソコンを修理することもできるとしても、その修理代がけっこう高くてそれなら、新しいパソコンを購入した方が得だと思わせられることが多かった。車なら車の型が古くなって燃費がわるくなっても、多分10年くらいは乗ることができるが、パソコンは車ほどの価格ではないのではやく故障して使えなくなる。

私のゼミに来た、昔の学生が、パナソニックかソニーの電気製品のどちらだったかは忘れたが、デザインはいいのだが、数年経つと壊れてしまうとこぼしていた。

いま使っているラジカセはソニー製だがラジオの機能はまだ大丈夫である。カセットの機能はいま使っていないので、まだ機能するかどうかはわからないが、CDプレヤーの部分が一番早く使用不能になった。とはいっても購入してから10年くらいはCDプレヤーとして使ったと思うが、やはり製品はどこか脆弱の部分がどうしてもある。

資源の節約のためには修理をした方がいいとは思うのだが、修理の値段が意外に高くて、新しい製品を購入するという決断をする機会の方が多い。資本主義社会の欠点なのだろう。


『ぼくはこんな本を読んできた』

2018-05-07 12:56:01 | 日記

というのは立花隆さんの1995年に文芸春秋社から発行された本である。昨日、たまたまこの本に接する機会があり、その大部分を読んだ。

さすがに、「知の巨人」と言われる立花さんだけあって、読んでとても興味深かった。この本は  I から V までに分かれているが、いま IV までを詳しく読んだ。V はちょっと一部を拾い読みしたところである。

数回に分けてこの感想を書きたいと思ったが、昨日読んだばかりだのにあまり覚えていない。それにしてもなかなか実践的な教えもあって、私なども学びたいという気もするが、やはり立花さんは優れた才能をもった人なのだろうと思う。

つまらないことから、話をして行こう。彼は長崎市の鳴滝で生まれた。その生年月日が私よりも1年後で、誕生日が私の一日後である。それで、立花さんは私とほとんど同年代だと知った。

「知の巨人」と称されるくらいの人なので、私よりも数歳上の方かと勝手に思っていた。またまたつまらないことをつけくわれれば、彼の生地の長崎市鳴滝というところは住宅地なのだろうか。私の大学時代の友人が長らく、そこに居を定めている。

それで、いわゆる長崎の出身というのかと思ったが、そうではなくて、高校一年までは茨城に住んでいたという。それも、また私よりも数歳年下のこれはきわめて近しい友人が卒業した、水戸一高に在学していたが、そのうちに東京都内の上野高校に転校して、そこを卒業して東京大学仏文科に入学して、そこを1964年に卒業している。

大江健三郎さんの仏文科の後輩ということになる。卒業して、文芸春秋社に入り、2年間週刊誌の記者として働いた後で、同じ東京大学の哲学科に学士入学をして、そこは卒業はしないで、中退しているらしい。これはその哲学科に在学中にいろいろ雑誌に書く仕事が忙しくなったためらしい。

だが、その哲学科に在学中に英独仏語に加えてペルシャ語だとかハングルだとか、ギリシャ語やラテン語まで手を伸ばしてほとんどマスターしたというからただの人ではない。

それに後年の取材活動でもよく知られているように最先端の科学の取材をできるだけの猛烈な学習と読書のできる知力の持ち主である。立花さんは数学が好きであり、数式を毛嫌いしない優れた能力をもっている。

この本に書いてあるところでは、アインシュタインが導いたことで知られる有名な公式 E=mc^{2} でも c は真空中の光の速度で、それは定数であるから、エネルギー E と質量 m とが互いに比例しているのだと、ちゃんとした記述をしてある。「だから、すべてを計算するのは必要ないのです」という。

いわゆる、文系の人というイメージはまったく払拭されるし、実際にそうである。まさに立花さんが「知の巨人」と称されるのは誇張ではない。

もっと個別の立ち入ったことを書きたいと思うが、次回以降にゆずろう。

(注)この本の中で何ページだったか、「量子力学におけるトンネル効果は非現実である」との記述があったが、これは何かの書き損じか、なにかの勘違いであろう。

原子核からヘリウムの原子核が放出する、アルファ崩壊だとか半導体のいわゆるエサキダイオード等ではトンネル効果は実験的に検証されており、非現実の現象だと考える物理学者はどこにもいない。


ピノ ノワール

2018-05-07 12:30:15 | 日記

ピノ ノワールはすなわちpino noireなのかどうかはわからない。けさ、妻が友人に電話して、お昼にピノという喫茶店で会おうと話をしていた。それでピノ ノワールかと尋ねたのだが、知らないとのことであった。

そして、ピノ ノワールて何と逆に聞かれた。私にしてもなんかピノと聞くとノワールと口調で条件反射的に出てきたので理由はわからない。それでちょっと考えたのだが、イタリア語でピノが「松」であるならば、ノワ-ルは「黒い」という形容詞であるから、ピノ ノワールは黒松を意味する。黒松という松が本当にあるのかどうかは知らないが、どうもありそうである。

松山の中心街に近いところにあるホテルがあって、そこのレストランがピノ モンテという。その意味を知らなかったが、これはピノは松であり、モンテは山であるから、「松山」というイタリア語であるということをいつか聞いたことがあった。

そういえば、緑はverdeであり、ヴェルディ川崎というJ1かJ2のサッカ―チームがある。ガンバ大阪というのはガンバは脚を意味するイタリア語であったと思う。フランス語なら、la jambeであろう。

よく分からないのはサンフレッチェ広島はサンは数字の3であり、フレッチェは矢であると聞いた覚えがある。毛利元就が息子たちに3本の矢を折って見るようにと促して、1本の矢なら折れやすいが、3本の矢なら、そうたやすくは折れない。すなわち、兄弟3人が互いに助け合えば、他国の侵略にも対抗できるという教えだったとか言われる。

そうだとすれば、なかなか意味のあるサッカーチームの名前である。大学生のころだったか、サッカーのさかんな県として、広島、静岡、埼玉の3県があると聞いた。それぞれにJリーグで優勝したたことのある、サーッカーチームがあることは周知のことであろう。


子どもの日

2018-05-05 11:55:32 | 日記

今日は子ども日(Kindertag)である。これで思い出したのだが、私にとって、はじめてのドイツ語は中学校のときのスポーツの応援するときの掛け声である、アインス、ツヴァイ、ドライ(eins, zwei,drei)であるとながらく思っていたが、そうではなくて、キンダーブックの中のキンダーであることがわかった。

キンダーブックというのは私の家に数冊あった、大判の絵本である。それをキンダーブックと言っていた。本当のドイツ語なら、キンダーブーフ(Kinderbuch)というべきだろうが、どうしたものかキンダーブックは英語とドイツ語のちゃんぽんである。

ちなみに、Buchは中性名詞だから、das Buchである。子どもを意味するKinderはこれは複数であるので、単数はdas Kindである。小文字でkind(カインド)といえば、英語の親切なという形容詞であるが、ドイツ語の名詞はすべて固有名詞でなくても大文字で書き始める。

キンダーブックにもどると、このキンダーブックを見ていたころは、私の家は朝鮮(今でいえば韓国)の鎮海(Ting-hae:カタカナ表記ならチネ)という桜の名所の小さな町に住んでいた。いつだったか朝日新聞の書籍の広告で韓国に桜の名所の小さな町があってとか書かれた、書籍の広告が出ていた。それで私が「幼児のころ住んでいた鎮海も桜がたくさんあったがな」と思ってよくその書籍の広告を見たら、それが私が幼児のころ住んでいた鎮海のことであった。

その鎮海に住んでいた人でも生きている人は70歳をゆうに超えているであろう。私も今月には79歳になる。ここで生まれた妹でも私よりも2歳年下だから、77歳になる。


連休でアクセスが減った

2018-05-05 11:24:41 | 日記

アクセス数がさすがに連休の影響か減っている。160~180台に下がっている。これは世の中が大型連休だからしかたがないだろう。私は日曜以外は休日も休まない。

さすがに10数年間の間を日曜日とどこか旅行中以外はブログを書いているともう書くことなどなにもない。といいながら、なにか書いているが。

今朝、思い出したのが、ジュネーブのレマン湖(Lac Leman)を船で観光したときのことを思い出した。この船はレマン湖をほぼ一周する1時間とちょっとの船での周遊だが、最近といっても、もう40年ほど以前のことだが、英語とかフランス語とかの説明が流れるのだが、その中に日本語の説明も流れる。ところが日本語の説明は一番最後なので、日本語の案内が流れるころにはその当該の箇所はすでに通り過ぎているということが起こる。

覚えているのはソ連の革命を指導した、レーニンがスイスに亡命していたことがあって、このレマン湖の近くにその住居があったという説明があったとか聞いた覚えがある。ところが、日本語の説明があるころには昔のレーニンの住居の前は通りすぎているという。これは一例である。

このとき、ジュネーブは都会でホテルが高いので、郊外のフランスに入り、そこに2泊ほどしたことがあった。それも街道沿いの小さなAuberge(オベルジュ:私の語感では「はたご」だろうか)に家族で泊まった。子どもと私たち夫婦とは別の部屋だったかもしれないが、いずれにしても宿泊代はそれほど高くなかった。これは最低限のフランス語を私が話すことができたから可能なことであった。

宿に泊まったのは夕方であったが、この宿の前の庭で数人の男性たちがペタンクをやっているのを見た、はじめての機会であった。そういえば、1977年の正月にミュンヘンに出かけて、寒い日だったが、凍った川の中でカーリングをやっているのを車で通り過ぎながら見たのが、カーリングを見たはじめであった。何をやっているのか当時はわからなかった。

カーリングはいまでは冬季オリンピックの主要なスポーツ種目になっている。隔世の感がある。


憲法記念日

2018-05-04 13:02:05 | 日記

昨日は憲法記念日であった。妻が東京に行っていないので、行くのをやめようかと思ったりしたが、県民文化会館まで憲法集会に出かけた。水島朝穂さんの話を聞きたかったからである。

ちょっと遅く行ったので、もう彼の講演がはじまっていた。なかなか講演慣れした話の上手な方とお見受けしたが、それでも途中で眠くなって講演を聞きながらうつらうつらとしてしまった。それから目を覚ましてからでも結構長い時間の講演を聞いた。

数年前の講師のように嫌味なところはなく、ユーモアもあり、するすると講演をされた。彼は憲法学が専門らしくて、いろいろ詳しかった。憲法は「国の在り方や理想を示すものではなく、権力を縛るものである」ということがくりかえし言われた。

1953年の生まれというから、私よりも14歳年下であるが、なかなか碩学である。頭がよくて、話もおもしろい人という印象だった。彼のインターネットを見て下さいということを言われていた。


Wer zuletzt lacht, lacht am besten.

2018-05-04 11:58:32 | 日記

「最後に笑うものが一番よく笑う」という意味だ。これはドイツのことわざだという。

Wer zuletzt lachtは副文でlachtは笑うという意味の動詞である。ドイツ語では副文章では動詞の位置は文節の最後に来る、いわゆる定動詞後置である。そして、つづいて主文章がコンマの後のlachtから始まる。

文全体では定動詞が2番目の位置に来るのが規則であるが、この場合の定動詞lachtは文字通りには文章の2番目の位置には来ていない。しかし、Wer zuletzt lachtという副文章がこの文章の主語となっているので、役割としてはこの副文章は一語と見なされる。それでlachtは文章の要素としては2番目の位置にある。

どこかでかすかに覚えているのは推理小説で、英語の文章をつくった人がドイツ語風であるので、これは犯人がドイツ系のアメリカ人だとか推測されるというのがあった。多分、エドガー・アラン・ポーの小説か何かだったように思うが、定かではない。

副文章の定動詞後置にあたるものが英語にも残っている。「私はあなたが誰だか知っている」というとき、I know who you are.であり、I know who are you.ではない。どうしてだか高校での英語の先生は教えてくれなかったが、いまから思うと英語とドイツ語は兄弟の言語だから、ドイツ語と英語の共通の元の言語に副文章の後置の原則があってそれが残っていたものだろうと推測される。

ただ、ドイツ語ではそれがもっと広範に残っているといってもいいのだろうか。


わたしをはなさないで3

2018-05-03 16:13:43 | 日記

昨日の、「わたしをはなさないで2」ですべてがいうことは尽きていた。最後まで読んだが、結局おもしろそうな話はもう拾い読みで見ていた。

タイトルの、「わたしをはなさないで」という言葉は小説の中に出てくる、歌のカセット中にある曲のタイトルとか歌詞であった。この曲を聴きながら、キャシーが赤ちゃんの人形と思っている、枕を抱いて踊っているというところに出てくるし、そこがマダムとのはじめての出会いの箇所でもある。そしてそのマダムと最後のほうでもまた会うことになる。

私キャシーは小説の終りまで生きているが、トミーとルーシーは臓器提供の使命を終えて亡くなる。ルーシが先に亡くなり、トミーはかなり最後まで生きているが、キャシーは彼らの介護人を務めるが、最後にはトミーがやりきれなくて(?)キャシーを自分の介護人からはずしてしまう。

よくできた小説だと言いたいのだが、どうも私にはよくわからない。これはもちろんある種のサイエンスフィクションであろうが、そういう時代が来たとしてもだれも臓器提供を受ける人たちのことは切実な話題とならない。

クローンとしての役目を淡々と果たしていくという話でその人たちの葛藤はあるが、一般の利益を受ける側の話とかそういうのは臓器提供を受ける側のエゴイズムだとかという議論はない。むしろヘ―ルシャムという彼らが育った教育施設はその範囲内ではあるが、理想的に教育しようとしていたいった教育する側のえらく限られた範囲内でのある種の自己満足は語られる。世の中のそういう類似の施設にはもっと理想的な教育とはなっていないところだらけだという。

そしてそのことが自己満足だとか、人間としての道徳の退廃だとかの議論も出てこない。