【2011年9月27日(火) 衆・予算委員会 集中審議】
イカダに乗って船を出たシンドバッドのうち、これで最後の初入閣ということになります。
新生党結党メンバーで現在も国会議員をやっているのは、羽田孜代表、小沢一郎(氏)、渡部恒三さん、藤井裕久さん、岡田克也さん、参院に回った石井一さんと前田武志さん、そして北澤俊美・参院議員の8人だけとなりました。野田内閣で前田武志さんが国土交通大臣になりました。第39回衆院選(1986年中曽根死んだふり衆参ダブル選挙)初当選ですので、順番では岡田さん(第40回衆院選初当選)、北澤さん(1992年の参院選初当選)に後れを取りました。前田さんは、自民党離党、新生党結党に参画し、新進党に。第2回党首選では、北澤さん、岡田さんらと「羽田陣営」にいましたが、小沢一郎党首に16万票対5万票で敗退。その後の第41回衆院選の敗北(議席は微増)を受けて、「太陽党」へ。石井さん、岡田さんは新進党に残りましたが、新進党解党。「国民の声」を結成し、太陽党らと「民政党」をつくり、1998年4月に民主党に参加し、菅代表-羽田幹事長となりましたが、残念ながら羽田総理再登板は難しくなりました。しかし最大の目標である政権交代ある政治を2009年8月30日に実現させました。前田さんも衆院選、参院選、知事選3連敗を経て、参議院議員として、昨年の第22回参院選では、比例代表の民主党現職候補でただ一人前回(6年前)より票を上積みし、再選しました。
第178臨時国会の書き残しですが、議事録がきょうホームページにあがりましたので、書きます。ところで、私のブログで新生党のメンバーについて書くと、どうもその後の参院予算委員会で自民党のS議員が質問するという傾向があるように思えたのと、最近は具体的な議案(予算案、法案)がかかっていない国会審議があまり興味深くないので、ちょっと書くのが遅れましたが、議事録が出たのでそこから引用します。
社民党の阿部知子さんは
「これは予告をしてございませんが、冒頭、前田国土交通大臣にお願いをいたします。私は、この時期、日本の国土を守る、それも環境と調和してという新たなステージに入った、あの東北地方の大震災をそういうものとして私どもが受けとめ、次のステップを、本当に犠牲者にきちんと、あるいは被災者にもいろいろなサポートをしながら、しかし、次に向けて、私どもの国土づくりということを新たな視点から考えていくという時代になったと思います。前田大臣にあっては、世界の温暖化を危惧する世界じゅうの議員たちの連盟、GLOBEというのがございますが、そこの日本代表もやってくださっています。この時期、国土交通大臣になられたということは、やはり必要とする人材を時が要請していると思います。前田国土交通大臣に所見を伺います」
と質問しました。
これに対して、前田国交相は、
「阿部議員から今御下問がありました。今回の震災については、実は私自身も非常に深く反省をしております。というのは、この震災というのは第二の敗戦だと私自身は思っております。何に負けたか。それぞれの、おのれの内なる敵に負けた、こう思っているんです。 特に政治家においては、やはり、今まで議論されてきたもろもろのことを含めて、最終的にはああいった惨事にならずに済むような政治の意思決定というのがあってしかるべきだったのではないかというふうにさえ思っております。という意味においては、それぞれの内なる敵に負けた。よく言われる原子力村ですか、そういったのもそういったことかなと思うんですね。
そして、実は、サステーナブルな地域社会、国土のあり方、あるいは低炭素・循環型社会、言われて久しいわけですが、なかなかそちらの方向に向かなかったというのも、これまた私は、そういった意味で第二の敗戦かな、こう思っておりまして、これをきっしょに、国民全体にも、意識として、このままの日本の文明のあり方ではサステーナブルにならないなということを意識されたのだと思うんですね。それが、この夏のあの節電というようなこと。これは、ほかの先進国ではなかなか自主的にあそこまでやれるとは思えません。
そういう意味において、これから、国土交通大臣を仰せつかっておりますが、そういうサステーナブルな、持続可能な国土づくりを目指していきたい、こう思っております」
と語りました。
ところで、前田さんは国家崩壊という希有な経験をした国会議員です。
建設省職員時代に外務省に出向し大使館員として、1975年のサイゴン陥落を南ベトナム政府側から経験しています。今、南ベトナムという国はありません。名前が変わったのではありません。国がなくなったのです。当時は北ベトナムと呼ばれていた「ベトナム民主主義共和国(ベトナム社会主義共和国に改称)が南北統一の一つの国家として統治しています。
日本では国や国家をはじめから自然に存在しているものだ、と思う人が大半です。それは実体験からしてしかたがない面もあります。
アメリカのケネディ大統領(米民主党)は「自由主義vs社会主義」という構図(ドミノ理論)で戦争を始めましたが、北ベトナム国家主席のホーチミンは「長年植民地支配をしたフランス人の兄弟であるアメリカ人からの民族解放闘争」とたくみに“論理のすりかえ”をしました。勝利の理由は100ほどありますが、そのうちの1つがこの初期の段階でのパラダイム設定の巧みさがあります。
かつて、新生党に所属していたこともあり、第2回党首選で「羽田陣営」だった、自民党の石破茂さんは、質問のなかで次のように語り、議事録には載りませんが、前田さんはうなずきました。
「これは随分前のことです。私は前田さんからこういう話を聞いたことがある。ベトナム戦争が終わるときに前田さんは、国土交通大臣はたしかサイゴンに勤務をしておられたはずです。そのときにだれがサイゴンにいる日本人を救出に来たか。アメリカ海兵隊でしたね。違いましたか。日本の自衛隊でしたか。そうではないですね。少なくとも日本の自衛隊が助けに来たわけではない」
国を守る、あるいは国が崩壊する。政治家のグランド・デザイン、パラダイム設定というのはことほどさように大事な仕事です。戦争とは「国家vs国家」だと思っている人がいますが、例えば南ベトナム領で活動してた「ベトコン」はそれ自体は国家ではありません。これは現在のアフガニスタンでの戦争がなかなか終わらない理由がアルカイダが国家ではないことと同じ構図であり、この四半世紀以上、世界の構図を大きく変えました。また、“ホーチミン・ルート”と呼ばれた物資(兵站)の補給路は、これは他国にあったのですから、アメリカによる宣戦布告のないホーチミン・ルートの爆撃も、正統性が不明確です。アメリカはいったい何のために誰と闘っているのか分からない状態になり、自壊していったのです。それがベトナム戦争であり、そのラストが1975年のサイゴン陥落です。そしてそれはすべてホーチミンが描いた「民族解放闘争」というパラダイム設定であり、実は、1975年の時点ではホーチミンはこの世にいませんでしたが、サイゴンに変わる商都の市名としてホーチミンは生き続けています。
そのくらいの政治家が出て欲しいと思います、それはそういう国難になれば、必ず出ます。ただ、育てる土壌が必要で、日本ではそれに乏しい面は否めません。