緻密な取材を積み重ねた末に本として著してきた合田一道氏の話は他では聴くことのできない臨場感を伴って私の耳に届く。今回もまた、私は合田節に心地良く酔い続けたのだった…。
11月28日(木)午後、北海道生涯学習協会の公益財団移行記念として「ほっかいどう学」かでる講座の特別講演が行われた。その講師として私が敬愛してやまないノンフィクション作家の合田一道氏が「記録に見る命の道」と題して講演された。今年になって合田氏の話を聴くは何度目だろう?いつ聴いても合田氏の話は心楽しい思いである。
今回、合田氏は既に鬼籍に入られている5人の人たちが遺したもの、あるいは記録からそれぞれの生きざまを語った。その5人とは…、
(1)戦前の実業団野球において一世を風靡した函館オーシャン倶楽部の久慈次郎捕手が昭和14年、野球試合の最中の事故で亡くなった事件
(2)戦時中、特別攻撃隊の一員として若くして命を賭した攻撃で散った前田啓陸軍大尉の話
(3)昭和18年末、羅臼沖で日本陸軍の船が座礁し、生き残った船長が餓死した他人の遺体を食し、そのことにより終生罪の意識にさいなまれ続けたという事件
(4)昭和43年、美唄炭鉱爆発事故に遭遇した坑内員・坂口新八郎さんは地底で遺書を書いたが生還した。しかしその後遺症に悩まされ続けたという事件
(5)昭和43~44年にかけて4人を射殺するという連続殺人事件を起こした永山則夫が獄中で書いた詩から彼の心中を推し量った
※ 陸軍に徴用された船長の船は根室から小樽へ回航中、ペキン岬(ペキンの鼻)付近で座礁してしまう。
それぞれ聴き応えがあったのだが、ここでは(3)の俗に「ひかりごけ事件」と言われている船長の食人事件について触れてみたい。
「ひかりごけ事件」とは、昭和18年12月4日、日本陸軍の徴用船が根室から小樽に回航する途中に知床岬の突端に近いペキン岬(ペキンの鼻)付近で座礁した。乗船していた船長と火夫の少年がかろうじて海岸にたどり着き、海岸にあった番屋に避難した。しかしマイナス30℃にもなる極寒の中、食料もなくひたすら死を待つだけの状況の中、遭難46日目に少年が衰弱死する。残された船長も意識朦朧の中、判断力に失い思わず少年の死体を食してしまう。そうして船長はかろうじて生き延びたのだが、やがて人に知れてしまうことになるという事件である。
この事件が「ひかりごけ事件」と称されるのは、この事件をモデルとして作家・武田泰淳が「ひかりごけ」という小説を著したことで世に広く知られることになったことによるらしい。
※ 船長と少年はペキン岬にあった番屋で46日間過ごすがそこで事件は起こってしまった。事件後、船長はルシャまで歩き助けを求めたという。
合田氏は小説という形ではなく、この事件の真相を探るために実に15年もの歳月を費やし、当事者である元船長からの聞き書きも加え、『裂けた岬:「ひかりごけ」事件の真相』と『知床にいまも吹く風:「裂けた岬」と「ひかりごけ」の狭間』という2冊のノンフィクション作品を上梓している。
合田氏は取材した当時を回想し、悔悟の念を語った…。
それは元船長が服役し、社会復帰を果たした後に彼の口から事件の真相を質そうとして「人が生きるためにやってはいけないことをした人の心の中にズカズカと入っていこうとした」自分に対して若かったとはいえ、人の気持ちを考えない取材方法だったと…。
もちろん元船長は合田氏に対して何も語らなかったのだが、合田氏はそれを反省し、元船長の心が開くのをじっと待ち続ける姿勢を取り続けたことにより、彼の口からポツリポツリと当時の模様を聞き出すことができたという。
合田氏がこの日紹介した5人の記録は、この話の元船長以外は当事者の遺書だったり、言葉であったりしたが、この話で提示されたのは元船長が裁きを受けた裁判所の判決記録だった。しかし、それも戦時下における特異な事件ということで事件記録は抹消されているという合田氏の話だった。
合田氏はこの事件でも、元船長や彼が助けを求めたルシャ(北浜)の住民、あるいは関係者に地道な取材を続けた様子を臨場感たっぷりに語ってくれた。
かなり高齢になられている合田氏であるが、まだまだ元気に語り続けていただきたいものだ。機会がある限り、これからも合田節を楽しみたいと思う。
11月28日(木)午後、北海道生涯学習協会の公益財団移行記念として「ほっかいどう学」かでる講座の特別講演が行われた。その講師として私が敬愛してやまないノンフィクション作家の合田一道氏が「記録に見る命の道」と題して講演された。今年になって合田氏の話を聴くは何度目だろう?いつ聴いても合田氏の話は心楽しい思いである。
今回、合田氏は既に鬼籍に入られている5人の人たちが遺したもの、あるいは記録からそれぞれの生きざまを語った。その5人とは…、
(1)戦前の実業団野球において一世を風靡した函館オーシャン倶楽部の久慈次郎捕手が昭和14年、野球試合の最中の事故で亡くなった事件
(2)戦時中、特別攻撃隊の一員として若くして命を賭した攻撃で散った前田啓陸軍大尉の話
(3)昭和18年末、羅臼沖で日本陸軍の船が座礁し、生き残った船長が餓死した他人の遺体を食し、そのことにより終生罪の意識にさいなまれ続けたという事件
(4)昭和43年、美唄炭鉱爆発事故に遭遇した坑内員・坂口新八郎さんは地底で遺書を書いたが生還した。しかしその後遺症に悩まされ続けたという事件
(5)昭和43~44年にかけて4人を射殺するという連続殺人事件を起こした永山則夫が獄中で書いた詩から彼の心中を推し量った
※ 陸軍に徴用された船長の船は根室から小樽へ回航中、ペキン岬(ペキンの鼻)付近で座礁してしまう。
それぞれ聴き応えがあったのだが、ここでは(3)の俗に「ひかりごけ事件」と言われている船長の食人事件について触れてみたい。
「ひかりごけ事件」とは、昭和18年12月4日、日本陸軍の徴用船が根室から小樽に回航する途中に知床岬の突端に近いペキン岬(ペキンの鼻)付近で座礁した。乗船していた船長と火夫の少年がかろうじて海岸にたどり着き、海岸にあった番屋に避難した。しかしマイナス30℃にもなる極寒の中、食料もなくひたすら死を待つだけの状況の中、遭難46日目に少年が衰弱死する。残された船長も意識朦朧の中、判断力に失い思わず少年の死体を食してしまう。そうして船長はかろうじて生き延びたのだが、やがて人に知れてしまうことになるという事件である。
この事件が「ひかりごけ事件」と称されるのは、この事件をモデルとして作家・武田泰淳が「ひかりごけ」という小説を著したことで世に広く知られることになったことによるらしい。
※ 船長と少年はペキン岬にあった番屋で46日間過ごすがそこで事件は起こってしまった。事件後、船長はルシャまで歩き助けを求めたという。
合田氏は小説という形ではなく、この事件の真相を探るために実に15年もの歳月を費やし、当事者である元船長からの聞き書きも加え、『裂けた岬:「ひかりごけ」事件の真相』と『知床にいまも吹く風:「裂けた岬」と「ひかりごけ」の狭間』という2冊のノンフィクション作品を上梓している。
合田氏は取材した当時を回想し、悔悟の念を語った…。
それは元船長が服役し、社会復帰を果たした後に彼の口から事件の真相を質そうとして「人が生きるためにやってはいけないことをした人の心の中にズカズカと入っていこうとした」自分に対して若かったとはいえ、人の気持ちを考えない取材方法だったと…。
もちろん元船長は合田氏に対して何も語らなかったのだが、合田氏はそれを反省し、元船長の心が開くのをじっと待ち続ける姿勢を取り続けたことにより、彼の口からポツリポツリと当時の模様を聞き出すことができたという。
合田氏がこの日紹介した5人の記録は、この話の元船長以外は当事者の遺書だったり、言葉であったりしたが、この話で提示されたのは元船長が裁きを受けた裁判所の判決記録だった。しかし、それも戦時下における特異な事件ということで事件記録は抹消されているという合田氏の話だった。
合田氏はこの事件でも、元船長や彼が助けを求めたルシャ(北浜)の住民、あるいは関係者に地道な取材を続けた様子を臨場感たっぷりに語ってくれた。
かなり高齢になられている合田氏であるが、まだまだ元気に語り続けていただきたいものだ。機会がある限り、これからも合田節を楽しみたいと思う。