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芭蕉と始皇帝にとっての『聖地巡礼』

2013-12-13 21:14:07 | 講演・講義・フォーラム等
 松尾芭蕉にとっての「奥の細道」、秦の始皇帝にとっての「泰山」、それはそれぞれにとっては紛れのない『聖地』であったのだが…。 

 12月9日(月)夜、北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考 ~人はなぜ聖地を目指すのか~ 」の第7講が開催された。長かった講座もいよいよ残り1回となった。
 第7講は「古代中国の聖地巡礼 VS 近世日本の聖地巡礼」と題してメディア・コミュニケーション研究院の清水賢一郎准教授が講師を務めた。

 今回の講座は講義題が表すように、時代は異なるが日本と中国の「聖地」に対する考え方を対比するように解説された講座だった。

              

 中国においては紀元前221年に初めて中国統一を成し遂げた始皇帝が「泰山」において「封禅の儀(帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀) 」を行ったところとして知られ、その後の皇帝もそれに倣い「泰山」は中国にとって特別な山となっていったようである。
 さらに始皇帝は「泰山」を聖地化するためだろうか、泰山を中心として幾何学模様を描くように各地の山を登ったことを日本の研究者(上野美代子氏)は喝破したと清水氏は紹介された。
 こうして聖地化された「泰山」は現代の中国人にとっても一生に一度は訪れたい「聖地」となっているという。

                 

 対して「奥の細道」である。松尾芭蕉は自らの老境を迎え(46歳だが当時では十分老境だろう)漂白の思いが強く、さらには敬愛する西行や能因らが詠う東北地方への憧れが彼を旅立たせたという。ちなみに、そのときの芭蕉の旅姿は西行を真似たものといわれている。
 芭蕉にとっては西行や能因が詠った地(座)が聖地であり、そこを巡っていく旅だったという。その座は芭蕉にとっての「聖地」ではあるが、一般にとってはあまり関心をもたれた地とはいえなかったのではないだろうか。つまりそれはあくまで個としての「聖地」と云えないか?
 したがって「奥の細道」は現代において俳句を詠む人たちにとっては「聖地」かもしれないが、一般にはそれほど関心を持たれている地とはなっているとは言い難い。

 日本と中国の「聖地」に対する対比ということでもう一点興味深かったのが「自然」に対する考え方の相違である。
 日本においては「自然」は人の手を入れずあるがままの姿こそ尊いものとする考え方が主流であるが、中国においては「文化が自然を聖化する」という考え方があり、自然に積極的に手を入れることを良しとする考え方が主流のようである。
 例えば中国にとって最も早く世界遺産の一つとなった「泰山」であるが、登山道のいたるところの岩肌を削って碑文が刻まれていたり、宗教的な建造物が乱立していたりと、同じ「聖地」といえども様相が違っているようだ。
 このことについて清水准教授は《自然の聖性》VS《文化の聖化》と表現した。

 そういえばテレビのドキュメンタリーなどで深山の岩肌に赤色のペンキで描かれた碑文を何度か目にし違和感を覚えたものだが、中国人にとってはそうすることが聖性を高めることだという感性は日本人には持ち合わせないものである。
 う~ん。今回のレポートはかなり苦労した産物である。