沢木耕太郎“的”という表現は間違いである。なぜなら、それは沢木耕太郎そのものの文章なのだから…。我が敬愛する沢木耕太郎の文章を久方ぶりに読んだ気がする。それくらい彼は寡作の人であり、私も最近はチェックを怠っていたのだが…。
久しぶり書店を覗き、ノンフィクションコーナーに立ち寄ったとき沢木耕太郎が新刊を出していることに気づいた。「旅の窓」という小冊子である。
世界を旅する沢木耕太郎が世界の街角で撮った一枚のスナップ写真に短文を寄せたものである。あとがきによると、ある雑誌の連載だったようだ。その「旅の窓」には81編の写真と文章が載られていた。
どれもが沢木らしいモノの見方・考え方に溢れた文章の紡ぎ方だった。そうした中からさらに選りすぐって「これぞ沢木!」という文章を探した。そして私はその一つを見つけた思いだった。その文章を紹介してみたい。(81編のうちの1編だから盗用にはあたらないですよね)
その前にまえがき的に題名の「旅の窓」について触れているので、その文章も紹介する。
私たちは、旅の途中で、さまざまな窓からさまざまな風景を眼にする。それは飛行機であったり、汽車の窓からであったり、バスの窓からであったり、ホテルの窓からであったりするが、間違いなくその向こうにはひとつの風景が広がっている。しかし、旅を続けていると、ぼんやり眼をやった風景のさらに向うに、不意に私たちの内部の風景が見えてくることがある。そのとき、私たちは「旅の窓」に出会うことになるのだ。その風景の向こうに自分の心の奥をのぞかせてくれる「旅の窓」に。
というまえがき的なものがあり、次からは写真と共に「窓から見た旅の風景」(?)が語られていく。それでは私が最も気に入った1編を。
そこから、どこへ?
デジタルカメラではなく、フィルムを使っての写真撮影には、現像して初めて気がつくようなカットが入っていることがある。
その日、私は埼玉の河川敷で行われる鷹狩りに参加させてもらっていた。何人かが勢子役になり、竹藪にいる雉を追い立てる。やがて、雉がそこを飛び立つと、正面で待ち構えていた鷹匠が鷹を放つ。鷹は見事に一撃で獲物を仕留める。
私は、その一部始終をカメラに収めていたが、現像してみると鷹狩りとはまったく関係のない一枚が撮られていた。土手の上をひとりの男性が歩いている。ただそれだけの写真だが、いまの私には珍しい鷹狩りの写真より心に響く一枚となっている。
単なる散歩の途中なのかもしれない。しかし、このままどこか遠くへ行ってしまいそうに見えなくもない。そして、その後ろ姿に引き寄せられ、私の心も遠くに連れ去られていきそうになる……。
ブログの話題に事欠いた私は沢木の文章に助けられた…。