South Is. Alps
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Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
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若鶏のから揚げ、ジャガイモの素揚げ、春菊の胡麻和え、トマトとオクラの和風スープ

若鶏のから揚げ
ジャガイモの素揚げ
春菊の胡麻和え
トマトとオクラの和風スープ:日経新聞の日曜版「The Style」に敦賀市の「奥井海生堂(https://www.konbu.co.jp/)」の「蔵囲」という熟成昆布の記事があって、印象付けられたので、会社のウェブページを探ってみたら、ダシの作り方がかかれていたので、自宅に用意の安物の「日高昆布」でも少しでも近づけるかと、しばらくだし昆布を水につけておき、60度でしばらく煮出し、かつおを入れるという方法で出しをとった。ちょっとした真似事だけでも、違うように思う。薄口醤油と塩、日本酒と本みりんであじをととのえて、ヘタを取ったトマトを丸ごと加熱。皮をとったあとオクラとともにじっくりと加熱して食する。

2018-06-17 21:30:52 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『地球にちりばめられて(電子書籍)』

多和田葉子、2018、『地球にちりばめられて(電子書籍)』、講談社

本書は、クヌート、Hiruko、アカッシュ、ノラ、テンゾ/ナヌーク、Susanooという語り手が各章を語るという体裁を摂¥とっている。

クヌートはデンマーク人でコペンハーゲン大学の言語学科の院生、母も主要な登場人物である。物語の冒頭、HirukoをTV番組のなかで見出し、テレビ局に会いに行って知り合う。Hirukoは、失われたアジアの島国(日本らしい)の出身だが難民(あるいは、移民)として、北欧とドイツを転々と暮らし、汎スカンジナビア語という北欧諸国なら通じる自分で作り出した言葉を話す。Hirukoはヒルコとおもわれるが、イザナキとイザナミから生まれた子であるが目鼻口がなく海に流され、その後、二神は国生みをしていく。だから、彼女は、漂白する人物を表象する名、Himikoが与えられている。アカッシュはインド生まれの両性具有。ノラはカール・マルクス・ハウスにつとめ、テンゾを講師とする「ウマミ・フェスティバル」を企画していた。テンゾは、「典座」(禅寺の料理役)とおもわれるが、日本語を話し、寿司屋ではたらいていて、ダシでウマミをだす講師をひきうけるが、キャンセルする。彼は日本人と思われてHirukoと合わせようと登場人物たちが企画するが、実は彼はグリーンランドのイヌイットのナヌークで、クヌートの母が個人的な奨学金を出していたことが後にわかる。Susanooはスサノオ、日本人のようであるが言葉を失っていて口に出すことができない。はたして、Hirukoとの母語によるコミュニケーションは可能なのであろうか。

登場人物の置かれている情況はすべての境界をこえるというテーマなのだと思う。国境、言語、性別、文化など。しかし、それが、どのように超えられるのか超えられないのか、また、超える可能性が見えるのか見えないのか語られておらず、物語は完結していないように思える。様々な境界を越境している主人公が出会ったところで本作品の物語は終わっている。彼らがどこに向かうのか、HirukoとSusanooは言葉を交わすことができるのか、あるいは、それぞれが超えている境界は、どのように変化していくのか。あるいは、しないのか。

たまたま、本書を読み終えたのは、青森からの帰りの航空便のなかであった。弘前大学での学会でのラウンドテープルのテーマが、「自分の言葉で人類学する」というもので、日韓の文化人類学者がテーマについてそれぞれの自国の言語で発表しコメントしあうというセッティングの第一幕(今回は、韓国の研究者が自国の状況について語り、日本の研究者がコメントをした)で、第二幕は韓国で情況を逆転させるというもの。第一幕だけだが、セッションを聞いた帰りだったので、本書はいろいろと考えさせられた。
そもそもは、ラウンドテーブルの「自分の言語」というのもよくわからないが、それだけではなく、昨今よく取り上げられるネイティブ人類学とも、スタンスが異なるようだ。ネイティブ人類学は、たとえば、とりあえずは、マオリによるマオリ研究、あるいは、日本人による日本研究(古くは柳田の民俗学がそれにあたろうが)と思えばよいだろう。しかし、この日の韓国の研究者の問題提起は、アメリカで学んだ韓国人類学者が韓国で韓国語をつかって調査を行うが、英語で発表することが期待されている(成果として英語で発表するほうが望ましいとされる)という響きが強く響いていたように思う。人類学の方法論や用語はイギリス・アメリカが本流で、英米以外の国々の人類学が英米に対する従属情況にあるといった点が、主な主張点であるかと思われた。

多和田の本書とタイミングが重なっていたので、いろいろと考えさせられた。多和田自身、日本語とドイツ語で著作活動を行っているが、本書は日本でもドイツでもない舞台で汎スカンジナビア語や越境がテーマと取り上げられているものの、日本語で書かれている。読み進めるうちに、登場人物どうしが何語を使って会話しているのかを考えて、時々混乱が生じてしまった。もちろん、読者(私のこと)の読み方が浅い、あるいは、そんなことは気にしなくてもよいのかもしれない。気になることは、奇妙なことに他の言語で登場人物が会話しているはずであるのに日本語で読んでいるということなのである。本書は、翻訳かというと、そうではなく、おそらく、本書は最初から日本語で書かれたものであるはずだ。

自分の言葉で語るとは、あまりにも、広すぎると思われるが、もし広く捉えてよいというなら、たとえば、わたしには、韓国からの女性研究者の発声は好ましい響きと聞こえた。非常に野太い声で強く響いた。それに対して、日本人の女性コメンテータの声は、自身の声の質であったのか。普段の声ではなく、よそ行きの声であったのではないのか、とすれば、彼女は自分の「言葉」で語っていたのだろうか。韓国の女性研究者は自分の「言葉」で語っていたように思える。自分の言葉で語るとは、一体どういうことか、もうすこし厳密に定義するか、あるいはもっとはばひろく許容度を上げるべきではなかったのか。

本書の続編があるとすれば、そうした点をもうすこし、詰めていってもらいたいと思う。私達は、自分自身の母語の呪縛から離れることは困難ではあるが、かといって他の母語の話者との間でなんとかコミュニケーションを成立させねばならない。同じ母語であったとしても、時代や世代によって母語の変異は多様である。相互理解も困難な場合もありうる。方言差はどうだろう。そうしたこともふくめて考えていくことが重要だと思うがゆえに、「自分の言葉」で語ることとはなにかとか、作品の中で使われる言葉とか、また、読者が了解可能な「言葉」はなにかとか、また、それらのとの差異をどのように埋めていくのか、解決できない課題が山積だと思われる。興味深く、考え深く構えていかなければならない問題だけに。


地球にちりばめられて
多和田葉子
講談社

2018-06-17 16:29:13 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


6月16日(土)のつぶやき


2018-06-17 05:46:59 | tweets | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )