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スタートラインを思い出す

2013年07月04日 | 読書
 もう一つ『滝山コミューン一九七四』(原武史 講談社文庫)から

 読み終わってふと思い出したことがあった。
 この頃、そんな質問をうけることはめったにないが、以前は「なぜ、学校の先生になったんですか?」などと訊かれたことがあった。

 その時、多少のバリェーションはあるにしろ、こんな言い方をしていた。
 「子どもに1+1や文字の書き方を教えたかったから。」

 それをどんなレベルで語るかを考えれば、また面白い問題だが、それはさておく。
 初等教育を目指すという方向をシンプルに伝えようとして、そういう返答をしたはずだ。もっとも地方における安定した職業である事実も大きな要素であることは隠せないのだが。

 ところが、自分が「先生」を目指した本当の最初のきっかけは、実はあの頃にあったこと(実は前に一度思い出したことがあったが、今回この本でまたよみがえった)を強く意識した。

 それは小学校5,6年の頃だ。
 「班づくり(班分けと言ったかな)」の時に何かしらの不満を持ったのだと思う。
 その時に「オレならこんな班分けはしない」と浮かんだ。
 これがスタートラインだ。
 そして「この場合は~~して、そうすれば全員が不満がなく~~できる」と改善案を考えていたのだった。ただ現実としてそれを全体に提起したかどうか定かではない。
 しかし、記憶の中ではいずれそこが出発点である。

 当時の教師が選択した方法がどのようなものか分からないが、子どもなりに自分も集団づくりの手続きのこと、個との関係を考えていたようだ。これはやっぱり普遍的な課題なのだろうか。


 さて、勝手に著者を「鉄道オタク」と思っていたが、案の定、鉄道に関する記述は非常に多く、話の筋と直接関係ないことも少なくない。
 だから極端に言えば、そっくり抜いても「滝山コミューン」自体に大きな影響はない…いや、そうだろうか。

 著者が小学生時代に見つめた鉄道の発展は、「街」の成立と無関係なわけではない。
 人の移動を背負った交通機関の発達は、生活を規定し、行動パターンを作り出していく。それが多くの家族、地域、そして学校に与えた影響は小さくないだろう。
 鉄道の姿を描くことによって、当時の首都近郊の外観を見せたとも言えるか。

 「移動手段」に惹かれる著者は、空間を基盤にしているが、きっと時間も意識している。

 始発駅をどこにするかを決め、目指す方向はあるのだが、なかなか終着地の名は明かさない。
 ただ経由地ははっきりしているようだし、場所や時刻を明示しながら話を進めているようなパターンは、やはり鉄道マニアのなせる業かと、ちょっと感心している。