『大人のための 教科書の歌』(川崎 洋 いそっぷ社)
ちょっと驚いてしまった。
この本には戦後の音楽教科書に掲載された歌の中から66編が紹介されている。
その66編全曲を自分が口ずさめるということは意外だった。
教科書で習ったのだから当然ではないか、とも思えるが、三社の音楽教科書から選ばれているものだし、そしてもうすでに40年も50年も経過しているということを考えれば、歌の力って凄いと思うのである。
どこかの放送局の「音楽のチカラ」などという商業ベースのこととは同様ではない。
純粋に「覚えている」ことの素晴らしさ。66編全部だったのでそれは痛切に感じる。
著者である川崎洋が、こんなふうに表現している箇所がある。
「歌」のしたたかないのち
「仰げば尊し」を子供にもわかる言葉に直そうと新しい歌詞を作った児童文学者がいたが、どうにも不評だったという事実から、長く残る「歌」というのは詞と曲が一体化しているからこそ、生き永らえるんだろうなと、確信できた。
この本は、66曲を著者が解説しているわけではなく、多少関わりのあるエッセイ風の文章を添えて構成されている。
それぞれに趣がある文章になったのは、四季の際立つ変化や生まれ育った時代という背景があるからだ。
それをある程度の共感を持って読める自分の世代、つまりは66編をすべて口ずさめる世代(おそらく50代半ばあたりがぎりぎりではないかと思う)が「歌のしたたかないのち」から、どれほどのものを感受できているか、甚だ自信がない。
遠い昔、長髪をなびかせながら(笑)、ギターをつま弾いて唄ったことを今思い出した。
いったい、どんな世界を想ってステージに立ったのか。
(さっぱりわからん)
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた
シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた
風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ
歌に込められる世界観は様々であろう。
そのどの部分を不変なものとして担っていくか。
そんな観点で「したたかないのち」を見つめてみれば、案外大切なことに気づくかもしれない。
ちょっと驚いてしまった。
この本には戦後の音楽教科書に掲載された歌の中から66編が紹介されている。
その66編全曲を自分が口ずさめるということは意外だった。
教科書で習ったのだから当然ではないか、とも思えるが、三社の音楽教科書から選ばれているものだし、そしてもうすでに40年も50年も経過しているということを考えれば、歌の力って凄いと思うのである。
どこかの放送局の「音楽のチカラ」などという商業ベースのこととは同様ではない。
純粋に「覚えている」ことの素晴らしさ。66編全部だったのでそれは痛切に感じる。
著者である川崎洋が、こんなふうに表現している箇所がある。
「歌」のしたたかないのち
「仰げば尊し」を子供にもわかる言葉に直そうと新しい歌詞を作った児童文学者がいたが、どうにも不評だったという事実から、長く残る「歌」というのは詞と曲が一体化しているからこそ、生き永らえるんだろうなと、確信できた。
この本は、66曲を著者が解説しているわけではなく、多少関わりのあるエッセイ風の文章を添えて構成されている。
それぞれに趣がある文章になったのは、四季の際立つ変化や生まれ育った時代という背景があるからだ。
それをある程度の共感を持って読める自分の世代、つまりは66編をすべて口ずさめる世代(おそらく50代半ばあたりがぎりぎりではないかと思う)が「歌のしたたかないのち」から、どれほどのものを感受できているか、甚だ自信がない。
遠い昔、長髪をなびかせながら(笑)、ギターをつま弾いて唄ったことを今思い出した。
いったい、どんな世界を想ってステージに立ったのか。
(さっぱりわからん)
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた
シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた
風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ
歌に込められる世界観は様々であろう。
そのどの部分を不変なものとして担っていくか。
そんな観点で「したたかないのち」を見つめてみれば、案外大切なことに気づくかもしれない。