すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

〈あいだ〉を面白がる心

2013年07月30日 | 読書
 『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』(学事出版)

 勝手にこの本の読者層を予想してみれば、端的に二人への興味がある人たちだろう。自分もその一人で双方のブログを愛読している。長く読んできた経緯があるからか、本文中の呼称(さんづけ)がどうもしっくりとこない。石川さんもあとがきで触れている。この表記は結構読みの流れの障害になってしまった。


 それはともかくこの対談が書籍化され出版されたことは、現在の二人の影響力の強さを表している。私のように数年後に「教師」でなくなる読者は少数だろうが、この対談から何かを得て自分の生き方を振り返る中堅・若手教師も少なくないはずだ。そしてそれは「役立つ」という視点でないことも明らかである。


 当然ながら学校教育現場そして多くの教師への問題提起になっている面がある。石川さんが語ることは、年々閉鎖的な傾向を強める現場の断面を見せつけているし、堀さんの職場でのあり方には、疲弊した制度に対する強い揺さぶりを感じる。漫才ではないが、結果的に両ツッコミ型。語り口が対照的なので飽きない。



 二人に共通する下地は文学だ。単著でも示されている。対し方は大きく違うが、それが根にある危うさ?は共に自覚されている。文学に近づけなかった自分が生意気に語れば、二人の違いはどの程度のスパンで現実と対しているかによって顕わになっている気がする。GPSのように自らの位置を把握しながらである。



 一読後、堀さんの書いたまえがきを読み直す。「《あいだ》を生きている」という意味の揺るぎなさは、この本の広さや深さを表している。「わかる人にだけ伝われば良い」とつきはなしても、その《あいだ》を覗きこみたい人は多い。自分もそうだ。まずその《あいだ》を面白がる心が肝心で、出発はいつもそこだ。