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自らの質を自らの文で

2013年07月27日 | 読書
 ある本を読んでいたら論語の一節があり、その訳がちょっと気になった。

 「質がよくても文(あや)がなければ一個の野人に過ぎないし、文は十分でも、質がわるければ、気のきいた実務家以上にはなれない」

 しらべてみたら、次の原文があった。

 子曰、質勝文勝質則史、文質彬彬、然後君子、

 気になったのは「文」である。
 「質」と対比されているので、おそらくは外面的なものと予想して、辞典を調べると「文・綾」と表記されていて「模様」という意味があり、それが表面的な様子ということにつながるのだろうと解釈した。

 「文」は象形文字のはずと思って、漢和辞典に手を伸ばす。

 「大漢和」では「土器につけた縄文の模様のひとこま」としている。
 「常用字解」では「正面を向いて立つ人の胸部の入れ墨」がもとになっているという解釈である。

 いずれにしても、美しいかざり、紋様に集約されるようだ。

 辞典を読み込んでいくとなかなか面白い。

 「大漢和」の①は「あや・きれいな模様」として対語として「質(実質)」とある。
 ②「きれいにかざったさま」も同様であり、③では「かざる」という動詞になっている。
 その後「もじ」「ふみ」と現在よく使われている意味となり、⑥では「武に対して文といい、文化や教養学芸など。転じて、荒々しくなく、おだやかなさま。」となる。

 この流れで考えてこじつけてみると「質」は「武」に近い。

 それは人間の本性だから?

 さらにこじつけると、人間の歴史は戦いの連続だったから。
 自然との戦い、他動物との戦い、人間同士の争い…。
 質としての武は、今ずいぶんと様相が違うのだろうけれど、結局そのバランスを保てないと、人類は危うい。

 えっ、何をそんなに大げさになっているんだろう。

 かの論語は、いろいろな人が語るように、個人にあてはめれば次のようなことだろう。
 あるサイトから拾ってみた。含蓄がある。

 自分の中に蓄えた物を自らの望む形で表現する、内面・外見ともにバランスよく充実させなければいけません。