すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

呼び水となる声を

2013年07月23日 | 雑記帳
 夏季休業初日、職員室の机上を片付けていると未読の小冊子があった。教育関連団体の発行するパンフのようなものである。一応ページをめくってみたら、巻頭コラムを安彦忠彦氏(名古屋大学名誉教授)が書かれていた。「私教育の再生を可能とする政治を!」と題したわずか1ページの文章だったが、共感した。


 氏は長く中教審委員の任を務められた。そこで議論する「教育」は漠然としすぎると批判している。具体的には「私教育」と「公教育」の区別の問題である。「自由に議論を」という方向によって議論が拡散してしまうと述べられている。この指摘は、論議の場だけでなく、現場においても顕著であることは明らかだ。


 氏が危惧するのは、私教育をカバーする形で学校などの公教育が推進されれば、ますます家庭や地域は教育的な関心が希薄な社会になるという点だ。頷ける。私たちが善意で、あるいは無意識にしている働きかけはその観点から言えばどうなのか再考してみる必要はないか。もちろん、課題はかなり絡み合っている。


 「私教育」の質の低下は論を待たない。それを補うことはある面で必要だろうが、質の低下を止め、向上を目指すことが本質であることを忘れてはいけない。当然それは政治の仕事であり、氏が言うように保護者や地域住民の時間的な余裕、心理的な余裕つまり経済条件や勤務態様などの問題が焦点になってくるだろう。


 社会を変える仕事は教員の直接的な任務ではない。しかし教育に携わる者としては、あるべき姿を意識して現実を直視していきたい。安彦氏はこう言う。「教員もそのための呼び水となる声を周囲の大人に向かって挙げなければならない」。自分の声が呼び水となっているのか、慎重な見極めをするべき時期である。