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クラーク博士もそう思うでしょ

2017年04月16日 | 雑記帳
 「なぜ、表現に取り組むのか」などという大げさな題をつけているファイルが、PCデータの中にあったので開いてみたら、そうそうと思い出した。

 教頭時代に6年生の国語を専科のように授業させてもらったことがあり、『紙芝居』を単元化して取り組んだことがあった。
 その途中で子どもたちに向けて話したことを、教科通信向けに文章化したものだった。

 紙芝居発表会の仕上げ練習前に話したようである。一部引用する。

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 みんなの家のお父さんやお母さん、おじいさん、おばあさんが子供の頃は、例えば、表現がうまくできなくても、まじめに物事をこなしたり、黙々と仕事に励んだりしていれば「おとなしくていい子だね」「がんばり屋だねえ」とか認められたけど、今はそうではないです。
 人と人とのつきあいが、昔とは比べ物にならないくらい広がり、きちんと説明したり、自分のことをアピールしたりしなければ、生活しにくくなっている世の中です。
 だから、表現力をつけるということは、これからみんなが生きていくうえでとても大切になってきます。

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 なるほどね。
 そんなに的外れなことは書いていないと思うが、これが100%ではないことを改めて考える。

 おそらくその頃だったら、既に自分の中で感じ始めていたことだ。

 それは、表現力の育成は重要であり時代の要請でもあるのだが、だからといってそんなふうに子どもを染めることを、拙速にしてはいけないということ。

 「言いたいことを言うのではなく、言うべきことを言える人に育てる」というのは、わが師の大事な教えである。
 その点を踏まえつつ、もっと広い視野を持って子どもに接したい。

 例えば、かの古舘伊知郎が子ども時代は無口で引っ込み思案だったことはよく知られている。
 ぼやっーと何か一点を見つめている時が多い子だったと、何かの本で述懐していたように記憶している。

 古舘に限らず、様々な表現の場で著名な方が子ども時代を振り返る時に、どちらかといえば表現を苦手としていたと語ることは、そんなに少なくない。

 「タメの時期」というものがあるのではないか。
 その「タメ」のバリエーションは個それぞれであり、おそらく他からはあまり想像できない姿として現れるのではないか。

 大らかに構えて子どもを育てることは、今の「評価」「スピード化」を求める時代に厳しいかもしれないが、教育の本質だと思う。


 ある歳時記をみたら、今日は「大志を抱く日」と記していた。かのクラーク博士のアメリカへの帰国の日が由来という。

 「大志」は、近視眼的な環境からは生まれにくい気がする。