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表現にあきないコツ

2017年04月18日 | 教育ノート
 「あきる」ことはよくある。
 同じことを続けてあきないためには、目的を見失わないこと、刺激し続ける工夫をすることが大切かなとぼんやり思う。
 あきずにやっていられるかどうかは、二つのバロメーターなのかもしれない。



 教育にあきずに取り組めた(?)のも、仲間や尊敬する実践家の方々のおかげだ。
 何度か訪問した東京の杉渕さんの教室にも、かなり刺激をうけた。

 これまでの集約に載せていなかったようなので、ここに再録する。
 今読むと、その後の10年で見方が少し変化したこと、そして仕事以外の日常も似ていることに気づく。


・・・・・2006.3 校内研究紀要あとがき「表現にあきない教師を目指して」

(前 略)
 個人的なことになるが、私にも忘れられない出会いがあった。
 6月上旬の土曜に訪問した東京板橋区の学校公開である。
 ここには「10マス計算」「表現読み」等の実践で注目を浴び、マスコミにも取り上げられる杉渕鉄良教諭がいる。
 朝の活動から昼までのおよそ4時間、密着した形で参観したが、驚きの連続だった。
 休み時間に多数の参観者と共に懇談するなかで、杉渕氏のこの一言が印象に残っている。

 「バリエーションがないと、教師があきる」

 何か一つのことを続けていて子どもがあきる、という言葉を私達はよく使ったりするが、実は様々な場において教師が先にあきてしまっている場合もあるではないかと考えられる。
 大切なことは、あきないだけのバリエーションを教師が持ち、意図的計画的に使いこなしているか、である。これは活動の広がり、深まり、そして評価にも直結することだ。
 表現を研究の正面に取り上げている私達にとっては、ある意味で決定的な重みを持つ言葉ではないかと思う。

 場の設定、方法の選択、技能の提示、練習の仕方等々、どれをとっても10通りしか持たない教師と100通り持っている教師の差は明らかであろう。それは子どもたちに直接響くことになる。

 今年度の研究の営みを振り返ってみたとき、国語・理科・学級活動を中心に個々の実践のバリエーションは大きく広がった。それは本紀要にも示されている。
 そして、これを糧にしながら他教科等の授業や活動に関しても数多くのバリエーションを持つことが、ビックワードとしての表現の追求にもつながっていくだろう。

 子どもが活動にあきなければ、きっと力は蓄積されているはずである。
 子どもをあきさせないために、教師自身の内部情報と表現の豊かさが問われている。
(後 略)

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