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「ダラグスルナ」と言われたこと

2018年01月18日 | 雑記帳

(201801-- 納豆汁の美味しい時期)

 先日ある雑誌で「堕落」という語を見かけた時、遠い昔によく亡き祖母や母から「ダラグスルナ」「アヤ―、ダラグダゴド」と食事時など日常的に言われたことを思い出した。堕落という語の意味「落ちる。身をもちくずす。落ちぶれる」とは少しニュアンスが違う。しいて挙げれば「品行が悪くなり」に該当するのか。


 あるだろうかと半信半疑で『秋田のことば』を開いてみた。「だらぐ(ん)」が見出し語として載っていた。自分が叱られていた「だらしない。不潔だ」とその通りの意味が記されている。【用例】にある「えのなか だらぐだ(家の中が汚い。)」は、確かに片づけていない部屋をそんなふうに称されたように思い出す。


 そもそも仏語にあり、「仏道を修行する清浄な心を失って、俗世の人のような俗悪な考えに染まること」とされている。そう考えると、日常の所作、態度をたしなめる語として「ダラグスルナ」と使うとは、昔の人々とはなんと精神性に満ちていたことか。だらしない、不潔な行為を人間性が落ちることと結びつけた。


 読みかけている平川克美の本の一節につながる気がする。おそらく団塊の世代以降の日本人は、計画や目標を大事にするように言われ続け、育ってきた。しかしもっと上の、祖母や母の世代は「計画性とか、目標とかいった言葉よりは、もっと控えめで、具体的な生活態度を戒める言葉に囲まれて育った」と言えそうだ。


 さて、最近「堕落」と言えば「品性が卑しい」のニュアンスが大きいと思う。単に「落ちぶれた」では経済的意味合いが強いが、もっと心的な劣悪状況を指す傾向にある。「政治(家)の堕落」とは頻出する字句だ。ただ考えようでは、堕落だとまだ救いがある。「向上」の可能性が残っている。駄目なのは「腐敗」ですな。