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ジブン、ジカンを取り戻す

2018年01月20日 | 読書

(20180120  朝ぼらけ②~北沢道路より)

2018読了6
 『言葉が鍛えられる場所』(平川克美 大和書房)

 今年、何冊か読もうと決めた人の著書。書名にある「言葉が鍛えられる」とはどういうことか。言葉とはつまり「自分の言葉」「自分が使う言葉」だろう。鍛えられるとは「強い」というイメージだけではない。したたか、しなやか、そして細やかである場合もあるのではないか。場所は特定の空間を指すわけではない。


 このエッセイ集の題材の多くは「言葉」であり、現代詩が多く取り上げられる。若い時に詩に没頭していた著者が、職に就いてから遠ざかり、今また再読しながら、その意義や意味を考え直している。つまり、自分の言葉が鍛えられるためには「詩」が必要だ、と言っている。それは「鍛えられた言葉」だからである。


 「鍛えられた言葉は、いつも、見えるもの、存在、充足、正確さというものの背後に、見えないもの、不在、欠落、遅れを導き入れる」…この一節は重い。ありていに言えば、自信満々に語る人の言葉の軽さを物語っている。誰とは言わないが、ふだんマスメディアで目にする有名人、政治家などが思い浮かんでくる。


 「自分を相対化できているか」という観点で、この国のリーダーたち(いや身近な人にも当てはまる)を見てみれば信用に値するかどうかが決まってくる。貴重な示唆を得た。さて、今までおぼろげながら感じていたことを見事に言い切られた一節がもう一つある。「時代が個人の生活を追い越していくような光景」。


 物理的?には、生活時間の堆積が時代を作る。しかし私たちは今、自分たちの時間が、時代に急かされるような、進歩という名で現実が脅迫されるような感覚を味わうことがある。その正体は言うまでもなく経済効率だろう。まずそこに気づき、時間を自分に取り戻すために、「詩」を読むことは案外いい方法だと思う。