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桜と絵本と豆乳と

旬とは、滋味深い

2019年05月06日 | 雑記帳
 昨日の朝刊掲載の「内館孜子の明日も花まるっ!」は、「美肌のヒミツ」と題されて、「その土地のものは生まれた風土の中で食べると、おいしさが違う」ということから、「旬のもの」を味わう大切さに触れていた。ちょうど山菜の時期なので、まさしくそのことをよく感じられる。それにしても「旬」とは滋味深い語だ。


 「旬」は大漢和辞典音訓索引に「シュン」「ジュン」「しゅん」の三種類が載っている。これは「日本語特有の一字の漢字」として「旬(しゅん)」があるからだ。通常は熟語として上旬等の「ジュン」という読み方で「十日間」を表している。どんな経緯で「盛りの季節」を表わすようになったかは見当たらなかった。


 さて、かの健康美食を究めた北大路魯山人が常に強調していたことは、「旬の食材の鮮度への徹底したこだわり」であると、某作家のエッセイで見かけた時がある。これは間違いなく「自然観」と結びついている。加工食品や化学物質の調味料抜きには現代の食生活は成立しなくなっているが、基本は忘れずにいたい。


 「旬」とは「時間」の一つを意味する言葉。それは自然の営みと結びつき、食に関する大事な要素になると考えれば、おろそかに出来ない気がする。つまり、旬の食材を使った料理をいただくとは、季節に、出された一瞬に向き合い、時間を捉えることだ。それを大袈裟と言うならば、感覚を研ぎ澄ますことはできない。



 「旬がわかりにくい」ことは流通の発展と結びつき、否定できない。しかし自ら作った作物を自分で売りに来る(道の駅や直売施設等)人が多くいる市場に「山盛り」になっているのが旬である。それも市場経済には違いないが、そこは顔が見え、季節が見えることが前提だ。その営みの持つ意味を時々思い起こそう。