すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「本物」の人を悼む

2019年05月24日 | 雑記帳
 その昔、数人でサークル活動を始めたとき、周囲はあまりいい目で見てくれなかったが、積極的に理解を示してくれた先輩教師が数人いた。その中の一人が田口恭雄先生だった。詩人として名高く、その授業実践は眼力鋭い批評家を唸らせたと聞いた。縁が持てた幸いを今も想う。国語教育研を通した出会いだった。


 郡市文集の詩の審査を二人だけで行った年が、数回ある。当然、私にとって替え難い学びの場であり、修業の場であった。教えられた「詩の見方」を以後ずっと貫いてきた。少なくとも児童詩に関して、ある程度自信を持って選を出来る様になったのは、書物からの学びより、田口先生の言葉を糧に培ったと言える。


 そんな先生に一つ頼みごとをした。私達のサークルで詩の指導法の研究をしたいので、共同研究に適する題材を選んでもらうことだった。著名な詩ではなく、ある児童作品であったことに最初は面食らった。しかし「川原」というその短い詩は、実は噛み応えのある内容で、結局三ヶ月にわたって例会で取り上げられた。


 校長に就かれたときに、掲げたスローガンは斬新だった、曰く「詩と絵のある学校」。次の学校で提唱された一つの運動も忘れられない。「夏休み中の朝読み」…ラジオ体操がまだ盛んだった時期であり、その習慣化へのアンチテーゼのようにも感じるし、今思うと、言語活動として先進的な提言だったとも考えられる。


 同職する機会がなかったが、思い出は多い。いつだったろうか、偶然に秋田行きの電車でお会いし、席を共にしての雑談も忘れられない。ほんの少し詩をかじっただけの私に「お気に入りの詩人は…」と訊かれ、黒田三郎と吉野弘を挙げたら、その詩について滔々と語られた。本物とはかくあるべしと思った一時だった。
(つづく)