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その支配に手を貸さない

2019年05月05日 | 教育ノート
 一昨日『ボクの自学ノート』という番組のことを書いてから、ふと前日に読書メモした『半市場経済』(角川新書)のことが思い浮かび、読み直してみた。


 「存在感のある時間を求めて」という第三章は、杉原学という方が執筆しているのだが、冒頭にコミュニティ研究をしている社会学者マッキーヴァ―の述べたことを引用している。

 「私たちは、歳月の方をつかまえると、この瞬間を見失ってしまう。未来のために生きると、生きている現在を見失ってしまう」


 時々ふと抱く心持ちがズバッと広がった気がした。

 『ボクの自学ノート』の明日佳くんのノートに向かう姿は、まさに「生きている現在」を感じさせてくれた。
 結果的にはそれが受け入れられドキュメンタリー制作につながったとはいえ、一つの壁のような存在として出てくる学校教育のあり方に思いを巡らせざるを得なかった。

 その原点は明治期の学校教育導入にあったことが、この第三章で詳らかにされている。

 江戸期に日本人の姿を記した外国人の文献では、共同体ごとに自由で多様な時間が営まれていることがわかるとされ、それを著者は「われわれ時間」と称する。

 その「われわれ時間」を「西洋の時間=時計の時間」へ変えていくために、大きな役割を果たしたのが学校教育である。
 寺子屋を廃し導入された、近代的な学校教育の「本質は教科の内容ではなく、時計の時間に管理された生活に子どもたちを慣れさせることにあった」という。

 この指摘は特に新しくはないだろうが、時間意識の大きな変化という意味では今とても重く感じられる。
 「時間規律の身体化」「時間の私有化」を生み、共同体にあった「共有された時間の喪失」につながる。
 ここ数年、自分が地域行事等に関わる折に感じていた苛立ちのような感情の正体を見せてくれたとも言える。

 
 その点はさておき、個人が「自分の時間」を持つことは、近代の「自由」を考えるうえで最も大切な一つであるわけだが、いつの間にかその時間が支配されていると感じる人は少なくないだろう。

 それは大きく言えば、未来への不安が「貨幣獲得の手段」のために「賃労働」へ向かわせていることが基盤となっている。
 そして、その労働に投入される「自分の時間」は、実は「交換可能な時間」であり、それは「交換可能な自分」にも通ずる。


 そこに到れば「社会に出れば、効率的なことが求められる」と口にする教育は、昔から言い古されている「労働力の提供」でしかないのか、という気にさせられる。

 キャリア教育、プログラミング教育と華やかに唱えながら一皮むけば交換可能な人材づくりではないか、と問われたら、否と応えられる信念はあるのか。

 「未来による現在の支配」に手を貸してはいけない。


 と、ずいぶん遠大なこと書き散らした、子どもの日。