すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「型」が目指す「かたち」

2010年01月08日 | 読書
 『素読のススメ』(岡本紋弥著 PHP文庫)

 再読の2冊目である。
 平成14年の発刊であり、当時ベストセラーとなっていた『声に出して読みたい日本語』に肖る出版といったら著者に失礼になるが、著者が以前から何度か企画を持ち込んでいたものが、そのブームによって日の目をみたのは確かなようである。

 『声に出して読みたい日本語』とはまた違った趣があり、取り上げられている美文・名文もバラエティに富んでいる。
 「詠み方」という短い解説が面白い。単に強く、ゆっくりなどというありきたりの表現ではなく、イメージをわかせるような助言となっている。

 ~~だけを粒だてて詠む
 投げ捨てるように詠まずに、脇へ置くような感じで丁寧に。
 
 新内語りだけでなく様々な分野で活躍している著者の幅広さをみる思いがする。
 そうした詠みのこと以上に考えさせられたのが、次の一節。

 この国の古典的マニュアルに「かたち」から入るというのがある。ところが、いつのまにか茶も、花も、武術までもが「型」を覚えるところから入り、「型」を覚えたところで終了するをよしとする風習をつくりあげてしまった。

 「型」と「かたち」…この区別をどうとらえるか。
 「型」の教育を唱える人は多いし、私も賛同する立場としてどう解釈したらいいものか。

 他に置き換えられる言葉を思い浮かべてみたとき、この二つは結構接近しているのではないかと考えた。
 「流れ」と「すがた」である。

 「流れ」だけを真似ても「すがた」が似ていなければ駄目なのである。これは過程と結果ということではなく、芯になるもの、精神性を様子に反映させていることこそ重要なのだ、そんなふうにとらえることができるように思う。

 つまり、「型」を教えることで目指すべきは「かたち」なのだという意識を持ち続ける。そうすれば、見えてくることは多い。

昭和の本から再読を始める

2010年01月06日 | 読書
 年末から恒例のように本の整理をしたのだが、結局「整理」には行き着かず「移動」になってしまった。この顛末ももはや恒例と言えるのだが…。

 こういう挫折の原因の一つは、途中で立ち読みをすることにある。
 書棚に寄りかかったままペラペラと書物や文集などをめくってしまい、いったいどのくらい時間を浪費していることだろう。
 まあ、それも結構楽しかったりするところに根本的な問題があるのだろうが…。

 それはともかく、今年も再読を一つ自分に課してみたいと思ってはいた。その気持ちをはっきり形にしてくれたのが、ずいぶんと奥まったところから出てきたこの本だった。

 『一分間ティーチャー』(S・ジョンソン&C・ジョンソン著 ダイヤモンド社)~絶版になっているようだ~

 昭和63年3月発刊となっている。二十年以上前のものだ。購読はおそらくその時分だったら「向山洋一・訳」に惹かれたのだろう。自分の中で、当時は成功法則とか自己啓発とかあまり興味深く思っていたわけではない。
 しかし改めてこの本を読むとその後によく読んだビジネス誌などに書かれていることの基本があるように思う。

 「一分間目標設定法」「一分間称賛法」「一分間回復法」…つまり、自己肯定を短時間で繰り返し行うこと、あるべき姿を言語にしてイメージ化を図ること、失敗も受け入れるための幅を持たせておくこと…といったところがポイントになる。

 しかし、言うに易し為すに難しが私の現実。実際にその通りにやっていない生意気さが原因なのだろう。
 ところで「訳者あとがき」の中にある「向山学級の一分間目標」の設定手順が具体的だと、今さらながらに感心してしまった。
 「再読100冊」をテーマに、ステップを踏んで自分でも設定してみたい。
 手順どおりに書き込むとこんな感じかな…

 1 今年は再読100冊を達成したい。
 2 私は、今年再読100冊を達成したい。
 3 私は、今年のうちに再読100冊を達成する。
 4 私は、自分がかつて読んだ本の中から100冊を選び、しっかりと読み直す。
 5 読み直しの本から新たな気づきや深い認識が得られることで、読書する楽しみが増え、充実するだろう。
 6 (実現のための六つの段階、ステップを作る)~略

過剰さ、執着の表現は

2010年01月04日 | 読書
 年を跨いでの読了となった二冊目は、

 『編集者という病い』(見城徹著 集英社文庫)である。

 かなり以前のことだが、たまたま見たNHKの「課外授業」で強烈に印象付けられ、それ以来常に気にかかる存在であり続けている。

 番組を見た時、それから番組の記録が出版されて読んだ時、その言葉遣いにある教育界の実践家と共通するものを強く感じた。
 今回も同じことが思い浮かんだ。
 その感覚のもとになっているように思う、本の中で繰り返されるある動詞。

 切り結ぶ 

 「かかわる」や「つながる」や「連携、連帯」などという地平とはまた違った関係のあり方を示す強烈な言葉だ。傷つけあわなければ人同士はわかりあえるものではないという信念である。

 内容としては、編集者生活の三十年あまりの歴史が形式を変えて何度か繰り返されている構成で、広がりを感じさせるものではない。しかし、その分どこまでも深く入りこんでいくようなイメージを受けた。

 痛みのないところに前進はない
 
 見城があとがきに書いた一言である。
 格好のいい表現であるが、そこから著者の姿がどう立ち上がってくるかが肝心であろう。それをあとがきに堂々と書けるところに素晴らしさがある。
 誰にも真似できない、その生き方。傍目には滑稽に見えるほどの過剰さ、執着、渇望等々。

 ふと、それらはかつてもっと世の中に表現されていたのではなかったかという思いがよぎる。
 自分自身も、自分の身の周りでも、いくつも思い出せる風景がある。
 傷つかないための予防だけが蔓延している世の中が、これ以上膨らんでいったらどうなるのか。誰でも抱えている危険な因子、きっと自分自身も仕舞い込んでいるに違いないそんなものは、膨張した未来に耐えられるだろうか…そんなことまで思いが及ぶ。

「質問箱」から取り出す目標

2010年01月03日 | 読書
 『谷川俊太郎質問箱』(東京糸井重里事務所)を結局去年のうちに読みきれず、年明けの読了となった。

 「ほぼ日」のサイトで一度覗いたときはあったが、再構成されて出版されたようだ。
 様々な質問に対して谷川俊太郎が答えていくわけだが、もちろん普通の人生相談のような答え方をかの詩人がしているわけではない。

 質問する言葉から感じたことを、ある時はごく素直に、ある時は諭すように、いわば自由自在に語っているのだけれど、そこはやはり稀代の詩人。どれもこれも面白い。
 質問者の中には一般に交じって、名の知れている人もいるのだが、特に作家重松清訊くところの「泣ける小説」「泣き真似」に関して応えたところにうなってしまった。

 (略)泣き真似と言うより、真似泣きなのかもしれません。泣くのは個人的な行動に見えて、けっこう共同体に内在するパターンに支配されたりしますからね。
 
 うーん。この年末年始、『容疑者Xの献身』の堤真一の演技にもうるっときたり、箱根駅伝の若者の頑張りにこみ上げるものがあったり…そうしたことを「齢のせいで最近、涙腺が…」などと本気で思っていたが、なあんだ真似泣きだったか。

 よし今年は「真似泣きせんぞ」が一つ目の目標だ。
 と、ちょっと小声で宣言をしたくなる。

 予想はしていたけれど「あとがきばなし」と称した糸井重里との対談が秀逸。

 人には誰でも詩人的資質があるのだけれど、現実に暮らしていくには詩でないものが必要で、それを抑圧していく…という件があって、糸井が「抑圧の練習もしますね」と言うと、谷川が応えてこういう。

 そう、学校教育なんてまさにそうです。
 
 そう、私たちはそのことを背負って、毎日の営みをしていくのです。その自覚からどんな表現を生み出していくのか、
 と、これを考えることが二つ目の目標になるのかな。