すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉は三角、心は四角

2010年11月17日 | 雑記帳
 先週、『天然コケッコー』という映画を観た。

 http://www.tenkoke.com/

 これほど小規模な学校には勤めたことはないのだが、どこか懐かしさを感じさせる映画だった。
 そこでは、家族と呼んでもいいほど濃い関係が築かれるが、だからこその心理的な窮屈さも抱えて過ごすことになる。そしてそれらの意味は、過ぎ去ってみないとなかなか見えてこないものだ。

 映画にある6人の学校と、例えば600人の学校では、何がどう違うものか、作中シーン一つ取り上げても比較できることはある。

 実はこの夏に教え子たちから厄払いの同期会に招かれたとき(そこも小中併設校、わずか13人の学級だった)、この子たちの親密度はどの程度だろうかなどと探るような感覚が湧いてきたものだった。
 半分が地元に残り、あとは近隣そして都会とばらばらではあるが、それなりにまとまって同期会などを開いているのだから、まずまず?なのだろう。
 しかしそれは表面的なとらえであって、深い部分ではどうなのだろう…いや、その答えの責任の一端は自分にもあるのだなあ…などと、どうしようもないことが思い浮かんだ。

 『天然コケッコー』の主題歌の歌詞がなかなかいい。

 ♪ 言葉は三角で、心は四角だな
   まあるい涙をそっと拭いてくれ ♪
 

 http://www.youtube.com/watch?v=tTBA5SBdvag

 詩人ですなあ、くるりは。

 人は言葉と心で、他者と向き合う。
 三角と三角をうまく重ねて四角にできる人もいれば、三角の尖ったところで突きあうこともある。
 育った環境によって、三角や四角が似たような大きさ、形であれば、やはり人は親密さを増すのかもしれない。
 6と600という数の差も大きく影響するだろうなあ。

 さて、もう一つこんなことも考えた。
 齢を重ねるたびに、言葉も心も「角」がとれるのだろうけれど、やはり形は変わらないままだ。
 だから、いつも涙はまあるい。

 言葉や心が丸かったら、涙は流れないだろう。

読書する怠け者

2010年11月16日 | 雑記帳
 今年は、かつてないほどのペースで読書が進んでいる。
 といっても相変わらず重厚感のない本が多いし、時には読み飛ばし気味なハイスピードでめくっていることもあり、簡単に自分を誉めているわけではない。

 岩波書店の出している『図書』10月号に、泉谷閑示という精神科医の方がこんなことを書いていた。

 読書する怠け者 読書しない怠け者
 
 わずか三ページほどのエッセイだが、ううむと納得できることが多い。著書を献本した方々からの反応や感想から、読書の仕方、姿勢といったものを見抜いていく内容なのだが、次の指摘は実に考えさせられる。

 人は読書によってあらかじめ裡(うち)にもっている「経験」を深めることはできても、まったく未知の「経験」をすることはできない。
 
 確かにそうだ。小説読みは「自分以外の何人もの人生を知り、生きることが出来る」といったような言い方をすることがあるが、実はそんなに単純なことではないと思う。
 実用書を読んでもいくらかかじったこと、見聞きしたことがある内容の方がしっくりくるのは誰しも思い当たるだろう。

 もちろんここで大事なのは「経験」である。著者はこう言う。

 それは断じて、何かをしたとかどこかに行ったというような「体験」のことを指しているのではない。
 
 ではいったい経験とは何か…、著者はこうまとめている。

 「経験」とは、自身の内的な成熟のために「心の平衡を失うこと」を厭わずに「身を開いて」生きることなのである。
 そしてまた読書という営みも、「開かれた」姿勢でなされなければ、「経験」にはなり得ないものである。
 
 ずしりと重い。
 様々なタイプの読書があろうが、怠け者かどうかを分けるのが「姿勢」であるとするならば、心がけの連続でしか維持できないものであり、やはり怠け者ではできないだろう。

 かと言って、読書しない怠け者の仲間入りは遠慮したいし、まずは読書は手離さずにいたい。
 怠け者でもいいから、せめて愚か者にならないように心しようと思う。
 愚か者とは、決めつけや盲信になることであり、上の言を借りるならばそれは「閉ざされた」読み方ということである。

Happy people make

2010年11月15日 | 読書
 『競走馬私論 ~プロの仕事とやる気について~』(藤澤和雄著 祥伝社黄金文庫) 

 藤澤和雄は、JRA調教師として唯一NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」に登場している。しかもスペシャル版も含めれば二度ということになる。
 この本には藤澤が競走馬の世界に入り外国での経験を経て、調教助手そして調教師になり成功を得るまでの過程が描かれ、自分の信条を何とか通そうと頑張ってきた道筋が色濃く描かれている。

 「プロの仕事とやる気について」という副題に関して、ダイレクトにああだこうだと記されてはいないが、確かにプロとしての矜持を感じさせる文章が、随処に散りばめられている。

 本当にそこまでやる必要があるのか、…私は「必要かもしれない」と思うからやっている。

 一つの行動、一つの作業で、一万分の一しか変わらないのなら、ほとんど同じではないかと考えない。どんなにわずかであっても故障の確率が下がると思われることは断じて行動に移す。
 
 自分の歩んできた道を、飾らずに淡々と綴ってはいるが、頑固な思いだけはずしりと伝わってくる。
 馬の売買にかかわること、厩務員制度のあり方、外国遠征にかける情熱…どれをとっても、私たちがほとんど知りえない世界の改善についていわばパイオニアとして役割を果たしている。
 調教師としての勝数が多いということだけでなく、そういう存在だからこそ、プロ中のプロとして取り上げられていることがわかった。

 その根本理念は「人も幸せに、馬も幸せに」なのだと思う。
 他の調教師があまりしない調教の仕方をとることや進上金(賞金)の分配方法など、自らの信念を計画的にしかも大胆に実行に移している。
 馬の実力や自分たちの未熟さを知っているだけに現実的である。しかし同時にロマンを持って競馬の世界を歩んでいるように思う。

 さて、競走馬の調教と子どもの教育を比べたりすれば、多くの人から顰蹙を買うかもしれないが、実は多くの共通点を抱えているように思う。

 臆病な馬がレースに出て自分の力を発揮できるようになるための過程は、心理分析やら世話の仕方など実に肯くことが多いのである。
 その細かい対応は、初等教育にぴたりあてはまるように思った。

 まあ、一番根本になるのは、藤澤がイギリス修業中に、同僚からかけられた言葉であろう。

 Happy-people make   Happy-horse
 
 これにならって 

 Happy-teacher make   Happy-children

 こうありたい。

野口芳宏先生をお招きする

2010年11月13日 | 雑記帳
 野口芳宏先生をお招きする会まで、あと三週間となった。
 (少し見づらいでしょうが、そのポスターを学校ブログにあげてあります)
   ↓
  http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-366.html

 先生をお招きしての会を開くことは、私自身の一つの務めのようにもとらえているが、何よりそれを通じて自分がパワーをいただける、明日への糧となっていることを実感している。

 今回は「道徳」がテーマである。
 国語をテーマにしたものは、地域の研究会や勤務校での研修会で何度か実施した。「心の教育」をテーマにした教員向けの講演会も一度開いたことがある。

 しかし今回は初めての、そして自分にとっては一つの念願でもある保護者、一般対象の講演会も予定されているので、今まで以上に力が入る。
 先生の明快な語り口をぜひ味わっていただきたいし、何より子育てについての認識を広げ、深めてほしいと思っている。

 もちろん、子どもたちに対する特別授業もしていただける。
 校内で続けている「授業力向上セミナー」とはまた別の意味で、「授業」を考えるいい機会にはなるだろう。
 本当に楽しみである。

 参加や問い合わせについては、学校へ連絡いただいてもいいし、沼澤個人宛のメールでも構わない。
 できるだけたくさんの方に見ていただければと思う。

はき出してかき回す

2010年11月12日 | 読書
 『灯し続けることば』(大村はま著 小学館) 

 「学習指導の常識」という言い方はないかもしれないが、私たちが指導に関して持っている通俗的な知識を鮮やかにひっくり返してみせる痛快さがある。
 数多く触れているわけではないが、この教育界の巨星の本を読んで、いつも感じるのはそこである。
 
 スタートラインが一緒で、同じ教材で、同じ方法でしたら、同時にゴールに入らないのがあたり前です。
 
 この一つをとっても、その重みを私たちはどのレベルで理解しているだろうか。
 この自覚をどこまでも指導に生かそうと努めたのが「大村単元学習」ではないか。戦後の新制中学で、古新聞紙を使って一人一人に自作の教材とちびた鉛筆を手渡す著者に、自らの信念をどこまでも事実で示す気概をみる。

 その精神は、例えば総合的な学習の時間の好例に生きていると思うのだが、そればかりではなく、地道な日常の教科学習の中に刷り込ませていなければならない問題でもある。

 それは、個別的課題設定や個別指導という問題だけではないだろう。
 ゴール設定をどうするのか、という目標や評価に大きく関わることだし、そのためにどのような形態をとるのか、といった具体性まで当然視野に入れなければならない。
 教職として正面で受けとめるべき至言だと思う。

 ことばに対する心がけの言葉にも、姿勢を正させられる。それは具体的な行いとして示されるので、いつも明快だ。

 最初に頭に浮かんだことばは、捨てます。  

 「きれい」とは言わないことである。

 頭に浮かぶことを次から次へと頭がからっぽになるまで、「書くことがない」というところまではき出していくのです。
 
 そうやって、ぐるぐるかき回すことでしか「大切な思想を引き出す」ことはできない。

 まだまだである。

桃太郎と私

2010年11月11日 | 教育ノート
 桃太郎と私

 なんだこの題は!?と思いながら、書き進める楽しさよ。

 担任をしていた時に、桃太郎をもとにしたパロディっぽい脚本を書いたことがある。学習発表会での劇である。
 題名は「ももたろう、めめたろう」。
 桃から双子が産まれるという設定だった。
 2,3年生の複式学級を受け持っていたときで、2年と3年に同じ名前の男児がおり、その二人を兄弟に見立てた物語だった。
 細部までは思い出せないが、鬼が島で鬼たちが踊っている場面で当時流行っていた「ジュリアナ東京」などを登場させ、観客の爆笑を誘ったという華々しい!思い出がある。

 次の学校では、職員劇での登場だった。
 これには浦島太郎や花咲じいさんなども登場し、王様の前でだれが心豊かかを競う筋立てだったが、桃太郎の場面での審査における「切り返し」は、
「では、鬼はどうなる。鬼の立場はどうなんだ」
といった、実に渋いものだった。
 桃太郎を「侵略者の象徴」と見立てた、かの芥川龍之介と肩を並べたレベルの高さ(笑)であったと思う。
 もちろん、子どもたちの劇をしのぐ好評さであった。(それでいいんかい!と一人突っ込み)

 そして、今回の三度目。
 ひどくまともに全校集会で語る続き話を作ってみた。

 粗筋のもとになるネタが、先月新聞に載っていて興味を覚えた。
 宝物を分けてもらった村人たちが働かなくなって…という展開である。
 勤労感謝の日がある11月としては、なかなか時宜を得ているのではないか。
 童話的な語り口で書いたことは、今まであまりなかったが、子どもたちがしいんとなって集中して聴いてくれたことが嬉しかった。
 桃太郎ネタとしては、初めてまともな?バージョンとなった。

 ともあれ、こうした昔話素材の扱いやすさを感じる。
 多くの子が知っているという事実があり、人物としてシンプルであるので、様々な付加要素をつけることで、広がりある展開を生み出せる。
 「伝統的な言語文化」という観点からいけば、数々の問題はありそうなのだが…。

 まあそれはとにかく、他にも考えられる素材も数々あり、教材開発としても面白いのでないか。
 なかでもやはり桃太郎が一番なのかなあと思う。

 どこが「桃太郎と私」なのか。

 桃太郎と私は、ずいぶん違うというぐらいしか思い浮かばない。

一つの灯が消えて…

2010年11月10日 | 雑記帳
 小坂太郎先生の近著をもとに、いつもながら軽く自省してみたのは、夏のことだった。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/490dd866fa91396b80f24c9c78fbb6f9

 朝刊に哀しい訃報があった。
 体調が悪く入院なさっていることを耳にはしていたが、本当に残念でならない。
 
 詩を書いた子どもたちについていくつかの共通する思い出があり、地元の盆踊りを取り上げた私の実践について新聞紙上でも取り上げていただいたこともある。
 それ以上に、私にとって、失礼な言い方かもしれないが、この郡市や町の教育についての生き証人であり、そのお話や文章に触れることが嬉しかった。

 特に、この町の教育を支えた教育振興協議会という存在。そして作文集の継続。
 これらを語るときには、真っ先に名を挙げなければならない存在がタローセンセであった。

 そして、時代の変遷をくぐり抜けて、かろうじて生き長らえていたその組織や文集もまた今まさに姿を消そうとしている。
 
 先生の命の灯が静かに落ちたのを見届けるように、その歴史に実質的な終止符が打たれるのも偶然とは言えない気がする。

 焦土のようなという比喩はあまりに安易だろうが、先生方がそこから立ち上がったように、私たちも今また大きな変わり目にあることという意識は持ち続けて歩まなければならない。
 何か一つ小さな花でも咲かせることができるのだろうか。

 合掌。

「子どもをみる」を整理する

2010年11月09日 | 読書
 「子どもをみる」と言ったときに、まず自分が挙げる本は上條晴夫氏の著した『実践・子どもウォッチング』(93年刊 民衆社)である。
 この本から、学習場面を中心に学校生活における子どもの表情、動きについての見方を多く学んだ。意識的に子どもをみる大切さに気づかされた本でもある。

 『子どもをみる24の発想』(家本芳郎著 民衆社) 

 上條氏の著より3年も前に出されていたが、残念ながらめぐり会っていなかった。学習の場に限らず子どもの生活全般を対象としているといってよい。同じ民衆社が当時出版していた「シリーズ 教育技術セミナー」の一冊である。
 
 実に素晴らしい内容の本であった。
 「子どもをみる」ことの大切さは、誰しも説くことだし、自分でもずいぶんと立派なことを言ったり書いたりしているが、これほど広範囲に、これほど明確でわかりやすく、しかもしっかりとした筋をもって書かれたものはあまりないのではないか。
 改めて、家本教育実践論の幅広さ、深さを見る思いがした。

 20年前と今では子どもの質の変化もあろうが、基本的に不変の部分も多く、十分に今でも通用する箇所が多い。
 特に「子どもをとりまく文化をみる」という章。ここは考えさせられる。
 発刊当時と大きく異なるネット文化の定着によって、学校は日々対応を迫られている。
 低俗なものが多い、子どもたちは翻弄されているという見方は一面で正しいが、そう決めつける前に私たちはそういう子どもの価値観をきちんと分析できているか、という問題があるだろう。
 この本に書かれている「その文化をみる視点」は4つである。

 ①なにが子どもたちにとっておもしろいのか、魅力なのか
 ②子どもたちのどんな願いや要求や理想をみたしているのか
 ③子どもたちのどんな心象を投影しているのか
 ④子どもたちのどんな伸びる力、生きる力を励ましているのか
 

 親や教師は、発達段階に合わせて強制力を行使することも必要である。しかしその方法として、邪魔に思えるものは分析・検討もせずに遮断することのみに目を向けていては、結局のところ子どもの育ちに資する文化を作り出したり、与えたりすることはできないのではないか。
 もっと対象に近づいてみる、多面的にみてみることが必要だろう。

 また、学校や学級が独自の文化を創り出すことについて、現状はずいぶんと窮屈な体勢になっていることも否めない。
 自由度を上げることがもっとも肝心である。
 これは、職員個々の精神の問題でもあるし、仕事上の工夫として実践に刷り込んでいく問題であるかもしれない。

 「子どもをみる」視点を順序立てて考えると、それは周りの大人をみる視点であり、学校や家庭をみる視点であり、地域や政策までにつながることを、もう一度整理しなければ…そんな気持ちでいる。

南吉の「家」と「道」

2010年11月08日 | 読書
 夏に愛知へ旅行したときに立ち寄った新美南吉記念館で、『新編新美南吉代表作集』(半田市教育委員会編)を買い求めた。

 この本にある「家」という小説は、何か今まで読んだことのない、そんな感じのする一編だった。

 一人の幼児の認識が広がっていく様を描き、後半では父親と一緒に近くの村へ時計の修理に出かけ帰ってくるという平凡な流れなのだが、終末にこのような文章がある。

 こうして子供の魂にはじめて懐疑の種がまかれた。彼の住む村は、彼の住む家は、もはやもと通りの村や家ではないのであった。  

 取り立てて事件と呼べることはないのである。ただ、子供の観察が続けられ、帰りついた家、親に対しても今までとは違う感覚を持ったのである。

 評論めいた言い方をすれば、「喪失の物語」ということになろう。小説読みではない自分ではあるが、こうした類のものは結構あるのかもしれないと思ったりもする。

 では、なぜ喪失するのか。
 認識が広がるからである。
 「何かを得ることは何かを失うことである」という格好よいフレーズがあるが、まさしくその通りという気がする。

 今までこう感じていた物事であっても、そこから一つ見方が広がったときよく「認識を新たにする」というが、それは古いものが捨てられたと言い換えてもいいことで、その意味では納得できる。

 しかし、その古いものに価値がないわけではなく、それをずっと抱えてきた者にとって思いが強ければ強いほど(これは当事者でなくともそうなのだが)喪失の意味は大きい。
 喪失する場所はきっと「道」だろう。この小話に盛り込まれている「道」という逸話が、ある意味象徴的である。
 そして道は、家から出て家に続くのである。

 今さらの話ではあるが、南吉の有名な童話を喪失という観点で思い出してみれば肯けることが多い。

こだわりを求める、こだわりを捨てる

2010年11月07日 | 読書
 『経験を盗め~奥の深い生活・趣味編』(糸井重里 中公文庫) 

 15編の鼎談集。「人はなぜ旅に出るのか」から始まり、ペット、ダジャレ、通販、ラーメン…「脱・東京の住み心地」まで、様々なジャンルが並ぶ。
 興味深い話が満載である。大げさに言えば「生の満喫」といった面持ちであった。

 ここに登場する面々を、一言で括ってしまうと「こだわりの人」ということになろうか。

 そもそも「こだわる」という言葉は、あまりいい意味を表す言葉ではない。固執、拘泥といった熟語が示すような、つまらないことに必要以上に気をつかうということだろう。

 それがいつの頃からか、「価値の追求」という面に重きが置かれ、プラスイメージが強い言葉として受け取られるようになった。
 「こだわりの逸品」「鮮度にこだわる」といった言葉は日常的だ。
 もちろん、負の面でも頻度は高く「そんなに、こだわるなよ」「こだわりを捨てろ」など十分見聞きしている文句である。

 この言葉の多義性を認めつつ、自分はどちらの「こだわり」が多いのかと考えてみる。
 自分には何かに集中したこだわりと呼べるものがあるだろうか。
 絶無とは言わないが、自信をもって何々とは宣言できない。

 ここに登場する方々のこだわりの中味は、仕事、趣味、生活スタイル等々様々であり、その対象に向かう姿勢も多様である。ただ明らかに共通するのは、対象へ向ける思いの強さだ。
 「好き」ということが基になる感情であることは確かだが、それだけではない。やらなければいけない状況に陥った例もあるが、どこか自然体で切り抜けているように見える(当事者はそう感じてはいないだろうが)。

 それはやはり、他者や周囲への気兼ねという部分をすっぱり切っているからではなかろうか。

 こだわるためには、こだわりを捨てなければ…

 奥の深い生活・趣味を望むのなら、そこに入ったまま他人から呼びかけられても出て行かない、返事をしない、知らんふりをする…奥までいくのなら、そうするしかない。

 ああ、また引きとめる声が聞こえる。