すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

出会いとは「ちがう」こと

2013年12月11日 | 雑記帳
 PTA全体会で昨今の教育問題に触れたので,その後発行した学校報でも少しだけ触れた。「(略)立場や主義によって「健全」の内容の受けとめ方に違いがあるのでしょう。ただ,違いを排除しない世の中は民主主義の根本と言えます」…言葉では簡単でも同質性の強い社会を築いてきたこの国では,案外難しい。


 翌日,愛読している連載記事「とかなんとか言語学」(橋秀実)を読んだ。第二十四回のタイトルは「『ちがう』は違う」。なんとタイムリーなこと。著者のパターンの一つだが,内なる違和感からまずは辞書にあたって追究が始まる。私達が通常思っている「差異」という意味,古語ではずいぶん異なるようだ。


 「ちがふ」「ちがひ」は「反対方向から来るものと交差して行き過ぎる」「同じ種類の動作が互いに交差する意」ということらしい。つまり「ちがう」はもともとも「差異」ではなく「交差」「交わる」ということ。「ち」は方向を表わし,「かう」は「交う」,その二つから成り立った語が「ちがう」なのである。


 つまり「現在の『ちがう』は方向の差異を示しているが,もともとの『ちがう』は交差に着目する」。著者は「そむく」という意味が含まれる「違」という漢字を当てたことが変わってきた理由と予想し,拒絶や否定の言葉としても定着してしまったとする。確かに「ちがう」「ちがいます」は撥ねつける言い方だ。


 「違いを大事にしよう」…よく言われることである。教育の場でも同じようなニュアンスが使われる。「みんなちがって,みんないい」…詩の一節であるこの著名な惹句は大きなスローガンともなった。ではどうすればいいかと考えれば,「ちがい」のもともとの意味にもどればいい。差異を交差させるのである。


 著者は書く…「出会いとは『ちがう』こと」。そう受け止められれば,その交差をできるだけ新鮮な気持ちで,じっくりと時間をかけて,時には立ち止まって,楽しむほどの余裕を持てるはずだ。世界規模,国家規模の違いが対立する現状をどうこう言えないが,まずは「違う」と言って拒否せず,交差させること。

向こうからやって来る言葉

2013年12月10日 | 雑記帳
 閑にまかせて数ヶ月前からの雑誌をぺらぺらとめくる時間があった。以前読んだときは、さほど心に入ってこなくとも、また新たに「ハイッ、ドーモ」と向こうからやって来る言葉もある。備忘録として書き留めてみたい。自分の問題意識の拡がりは、散漫であるとも言えそうだが、どこかでつながっている気もする。


 「リーダーにとって重要なのは、輪の中の人が安全と『感じられる』環境を作ること(サイモン・シネック)」…完全な安全を保障することは限りなく難しい。企業であっても学校であっても、個人であっても集団であっても。とすると「感じられる」ことが最終目標。そのために必要なことを挙げていってみよう。


 「ネットは人を自由にしますが、自由になれば格差も広がります。(古市憲寿)」…便利な道具としてのネットを使いこなす意味をどこに求めるか。ネット社会の進行は、経済格差を助長することは間違いない。そこに身を任せるのではなく、目標に対する可能性を探るためにネットを使うことを忘れてはいけない。


 「政府が示したグローバル人材育成戦略の中にある、グローバル人材の概念は順番が間違っていると思います。(鳥飼玖美子)」…英語教育に絡む発言。この概念(語学を要素1)がどの立場からの重視かは誰しもわかる。要は対象者の実態把握と、実効性のある教育課程編成だ。数年経ったが成果は見えているか。



 「『注目の力を知る』教師は、立ち歩きをしていない子どもが得をするように、配慮します。(横山浩之)」…特別支援教育に限ったことではない。どんなによそ見や手遊びをしている子であっても、神経の一端は級友や教師に向いている。正しいことが淡々と普通に行われる場こそ教育力がある。それは仕事も同様。

流行語大賞の足の裏(2)

2013年12月09日 | 雑記帳
 「倍返し」

 これは基本的に復讐の言葉だ。
 前提の叫びとして「やられたら,やり返す」がある。
 旧約聖書にある「目には目を歯には歯を」ということか。

 新約にあるイエスの「左の頬を打たれたら、右の頬も差し出しなさい」と対極にある。
 さらに言えば,孔子の「己の欲せざるところ、人に施す勿れ」という教えに反する。

 聖人たちの教えに逆らう論理がもてはやされる世の中の空気とは,いったいどんなものか。

 弱い者が虐げられているからその代弁だ,という考えもあろう。
 しかし使う人間のその矛先は,強く権力を持っている者に向けられているか。

 違うと思う。
 弱い者同士で,優劣をはっきりさせたいがためにその思考がありはしないか。

 揚げ足取り,些細なミスにつけこみ,なんとか自分の優位を保ちたい…そこに話し合い,折り合い,すり合わせ,認め合いといった要素はあまり感じられない。

 「半沢直樹」のドラマ設定として,それを復讐劇として仕上げたのは,力関係がはっきりしている昔からの演劇パターンだったからだ。

 しかし,大方の人はその関係性をスルーして,自分の都合に従って相手を設定し,感情のままに攻撃したりする。

 「倍返し」は、自己都合優先思考の敵対化表現を煽る言葉だ。



 さあ「じぇじぇじぇ」です。

 すでに4月には別の観点から取り上げて,書き散らしていた

 結論としては,語感のよさに目をつけた脚本家の勝利ですね。
 ちょっと気にくわないのは,初期にあれほど「あんまり使っていない」としていた地元の方々が,人気とともに使い出したような印象があること。

 ある意味では「Uターン方言」か。
 まあ主人公のアキも似たようなものだったが。

 驚き,感動?の言葉にイチャモンはつけにくい。

 ただ,こうは言える。

 はじめ「じぇ」という単発の表現が,繰り返しによる強調で「じぇじぇじぇ」となり,激しく何度も繰り返される場面があったことを振り返れば,ひどく単純化された,経済的な台詞で,このドラマが支えられたことになる。

 それがドラマにおける「キメ台詞」ですよ,と言われればもっともだが,ちょっと寂しい気がする。
 名作『あまちゃん』に見入った人たちは「じぇじぇじぇ」という言葉を思い出すたび,何に驚き,何に感動したのかをきちんとふりかえられるのか。

 結局,何を言いたいのか…あれれぇ,やはりイチャモンは無理でした。

 「あらゆる『不在』が『存在』に変わる『あまちゃん』の世界」と評したのは,藤川大祐さんだった

 その説に重ねれば,「じぇじぇじぇ」は自分の「存在」を証明できる言葉だったはずなのに,あまりの流行によって外に向けられる表現として不幸を背負った。

流行語大賞の足の裏(1)

2013年12月08日 | 雑記帳

 「流行語大賞」にイチャモンをつけてみる。

 まずは「お・も・て・な・し」だ。

 今年の夏、まだ例のオリンピック開催決定以前に、こんな一文を書いていた。

 お盆に「もてなす」を考える


 「取り扱う行動」に日本人の精神性を込めた言葉とでも解釈できる。

 この「お」は謙譲を表わすということだな。

 (ここから「人生幸朗」風…大方の人が??だとは思いますが)

 しかし、どうしてそれを、例のあの区切るような口調で言わなきゃいけないのだ。
 外国人相手に、その言葉を覚えさえようとでもいうのか。
 そしてあの、微妙な手の動きはなんだ。
 区切りの強調か。リズムの可視化か。
 見方によっては、日本人の器の小ささだ。
 そんなふうに身に付いたらどうする。

 「オオウッ、コレガニホンノ、オ・モ・テ・ナ・シ デスネ」

 流行にのって、子どもが言うならともかく、大の大人が全然関係ない場の挨拶で使ったりするじゃないか。
 こちらは、全然もてなされている気分はせずに、まあこんな場だからいいでしょ、という薄っぺらな予定調和の世界だろう、それは。

 「もてなす」という日本語をこんなに軽くしたのは誰だ!
 責任者、出てこい!

 (一応出番終了・笑)



 続いて「今でしょ」

 これを初めて聞いたのは三月、テレビではなく、ある会で教師が使い、子どもたちが答えていた。
 もう流行っていたのだろうが、知らなかった。
 春以降、すごい勢いだった。
 リズムがいい、短い言い切り、汎用性がある…流行る要素がたくさんある。

 そしてふっと、この言葉は今の世の中の典型的に求められる姿であることに気づく。

 つまりは、即断、即決、スピード化…。

 今やるべき、今見たい、今ほしい…こうした欲望も含めて、前のめりの人間がどんどん、どんどん背中を押されていくような。

 今でなくてはいけないのか…そんなことを先日読み聞かせの会の方々と、ちょっと話した。
 取り上げた話への子どもたちの反応をみて「難しかったかな」とつぶやいた方に、「そのうちわかることもあるし…」「いつかふっと思い出すときがあるかも…」そんなふうに語って、今でなくともよいものの価値なんてことを話した。

 私は、授業において酒井臣吾先生言うところの「見切り発車」を促すタイプではあるが、「待つ」という重みについても十分自覚しているつもりだ。
 「今でしょ」という思考のよさは十分わかる。
 しかし、それが列車のように次々に連発される思考が優先される教室や学校にしてはいけない。

 そういう世の中になりつつある気配が感じられるからこそ、意識的でありたい。

 現に「今でしょ」と言わんばかりに、危い方向への舵取りが進んでいないか。

選ばれた誰かたちの物語

2013年12月07日 | 読書
 『雪男は向こうからやって来た』(角幡唯介  集英社文庫)

 雪男の存在を信じるかと問われれば、「雪男もUFOも宇宙人も信じます、ただし軽くだけどネ」といった程度の認識である。
 もちろん、どれ一つ実際に見たわけではない。ただこの広い地球、宇宙には私たちの想像を超えた存在はあるだろうな、という考えを持っているということだ。

 そして、この本を読み終えてわかるのは、こういう私のような程度の人間には、けして「雪男は向こうからやって来」はしない、ということだ。

 仮に何かの偶然、奇跡があって、姿を表したとしても、「えっ、えっほんと…そうかあ…ふうん、やっぱりそんなこともあるんだ、驚いたあ…でも、早くご飯食べたい」とそんな感じではないだろうか。


 この著の半分は、雪男捜索そのものより、雪男捜索に魅入られた男たちのドラマを描いている。
 その中には雪崩に遭い、命を落とした方々もいる。そこまでして、険しい山の中に入り、自然と格闘しながら、じっとその出現を待つ。
 探検という「作業」の始終を見せながら、その内面に迫っていく記録だ。

 雪男捜索に取り組もうとする心を突き動かすのは何か…初めはその存在自体に懐疑的だった著者が、たどりついた結論は、例えばこの一言だ。

 認識の曇らされた人間の前には雪男は現れないのではないか。

 存在の有無の問題より、もはやこれは人の生きる姿勢のようなものだ。
 著者が続けた文章は、もはや雪男捜索という出来事のことではない。

 それまでの人生を振り出しに戻しかねないアクシデントが仮に起きた場合でも、それをあるがままに受け取らず、常識的な眼鏡を通してその現象を殺菌洗浄し、あくまで理路整然とそれを処理してしまう

 人はよく「出会い」という言葉を使うが、事の大小、幸不幸いずれの場合も全ては受けとめるあり方でしかないことに痛切に感じさせる。


 解説を書いた三浦しをんが、このインパクトの強い題名を取り上げて、本質を見事に言い切った文章がある。

 雪男は、尾根の向こうからやって来るのではない。雪男は、向こうからやって来る。「おまえだ」と、我々のなかのだれかを選んで。

 その言を借りれば、この本は「選ばれただれか」たちの物語であり、その生き方の人間臭さがずんと伝わってくる。

急展開,私のTabletデビュー

2013年12月06日 | 雑記帳
 12月の全校集会。久しぶりに漢字ネタでいこうと思い、以前作ったプランをPPTで再構成した。さっそくタブレットを生かそうと大型テレビにつなぐが、いったん映りまた消えてしまった。花巻の時も同じ接続トラブルがあり、ここはやむなく安全策でノートPCに変更。ええい、Surface!これは八つ当たりだが。


 しかも、スタートロゴ画面から全然動かなくなった。購入して3週ほど経つが初めてである。時計表示は動くのでフリーズか。最近じゃあ珍しいと思いながら、メーカーサイトで解決策を検索。電源を長押しで落として再起動をかけたら復帰した。だいじょうぶかあ、いまだネットワーク接続にも成功していないし…。


 日曜からマニュアルを見たり、ネット検索したりして、あれこれやって五日目、依然として「制限あり」の状態だ。寝床の中であそこをこうすれば…と考えるとまた睡眠不足に陥る。だいたい「簡単設定」という言葉が曲者で、それでトラブると逆に面倒な世界へ迷い込む。あれこれ試した操作が、新たな迷路をつくる。


 電話サポートに掛けると、きっといつかのようにイライラするに決まっている。最終手段にしようと決めている。しかし今週中につながらなければ日曜にはやむなく掛けるしかないだろう。それにしてもサポートの説明はマニュアルに沿うだけで、こちらの実行済みなど訊く耳を持たない奴らばかりだ。本当に避けたい。


 そんなことを思いつつ、フリーズ脱出したSurfaceを今日もどうせダメだろうけどと、設定画面にアクセスし接続先の打ち直しなど様々やってみる。と、傍においた光ポータブルのLEDランプが点滅したではないか。ん、なんだ。画面表示には3Gの文字が!えっ、ひょっとして来ましたか。私も本格デビューですか。

『本』をぺらぺら読んでさえずる

2013年12月05日 | 読書

 書店で目にとまった『雪男は向こうからやってきた』(角幡唯介 講談社文庫)。自然ノンフィクションは得手ではないが、なにしろ題名がいい。新田次郎文学賞もとっている作品だし…と購入した。その時にレジの所でいただいた今月号の『本』を開いてびっくり。この著者が冒頭の特別対談の一人だった。


 新作で「講談社ノンフィクション賞」を受賞したそうだ。ダブル受賞した大学時の探検部の先輩と対談している。独特の雰囲気が漂う場だ。自分にはかなり縁遠い世界ではあるが、それゆえに想像も広がる。「文章は探検部で学んだ」というくだりは凄いなあ。体験を伝えるという根本から発する魅力にあふれている。


 「最上級の麻薬」と題して酒井順子がユーミンについて書いている。「ユーミンを聴くことによって自己を肯定しながら青春を過ごした者」ではないが(当然か)、時代の風としての存在感を常に感じさせてくれた一人だ。それにしても新書『ユーミンの罪』という題名はどうだ。上手いが、もしかして責任転嫁?


 二宮清純の連載は「上原浩治が打たれない理由」。野球ファンならば、今年の上原の活躍を称賛しない者はいないだろう。その理由に、今までの道のりの険しさにへこたれなかった粘り強さを挙げる人は非常に多いはずだ。プロ入り当時、怪物松阪大輔との比較で常に用いられた「雑草魂」。根強く残る本物の言葉だ。


 「天の邪鬼」は青木理というライターの文章だ。自著を紹介しながら、ノンフィクションの発表の場が姿を細めていることを危惧している。出版界の問題として深刻なだけでなく、現実をえぐり出す眼の存在が追いやられている印象も持つ。この文章を読み、なぜか、自分はルポが好きで、憧れていることに気づく。

もどらなかった三人の存在

2013年12月04日 | 読書
 昼休みの20分ほどで一冊の児童向けの本を読んだ。

 『トレモスのパン屋』(小倉明  くもん出版)

 ネットを見ていたときに何かの拍子に表示され、「第一回小川未明賞優秀賞受賞作」という表記にちょっと心が動き、たまには…と思って購入したものだった。

 こういうジャンルは読み慣れてはいないが、いい評価をうける本だと思った。大人の読者でも惹きつけられる展開だ。

 トレモスという町にボルトという名前のパン焼き職人がいて、パン焼きコンクールで優勝するほどの腕を持ち、店は繁盛していたが、向かいに同じようなパン屋ができて…という筋立てである。

 この物語には、悪人は一人として出てこない。
 子ども向けだろうから頷けることだが、他に対して意地の悪い考えや思いを抱く場面もほとんどない。
 結局、自分に向ける、自分の中にわき上がる思い、それも迷いや嫉みやこだわりなどが、多くの時間を支配するものだということに気づかされたりする。

 登場する人物の中で、印象深いのは「もどらなかった三人」(実際に語られるのはその中の一人だが)だ。
 それは、向かいのパン屋に流れた客の中で、結局ボルトの店にもどってこなかった三人である。

 結果的には、自分の舌を信じた三人である。

 これらの存在がボルトを不安にさせ、「事件」を引き起こすきっかけを作っていく。


 人は、まず自分を信じていかなければならない。
 では、まるごと自分の思うままに行動すればいいかというと、それは難しい。

 自分の根底にあるものを常に見続けていく必要がある。
 この話においては,主人公ボルトの「うまいパンを作りたい」という願いである。
 それが、様々なことを纏うなかで、だんだんと見えなくなっていくことがある。

 その願いを覆ったり、願いにつながったりする事柄は、注意深く見ていないとその力を強め、本質を見えなくするものだ。

 自分を信じるとは、根底にある思いや願いを貫くことか。

 もどらなかった三人、ボルトの思いに振り回されながら人として信義を忘れかった弟子のカルル、そして何よりパン好きな子供たち、そういう存在によってボルトは再びパン作りへ向う。

 私たちの教育の仕事もさもありなん。
 よけいな情報で重くなっている日常を振りかえさせられる。

 自分にも「もどらなかった三人」はいるのかもしれない。

明治6年元日を想像してみよう

2013年12月03日 | 雑記帳
 今日は「カレンダーの日」。「12月3日」の1,2,3が関係あるのかなと軽く考えたら、そんな語呂合わせではなく、太陽暦採用に伴って制定されたという。つまりそれまでの旧暦廃止の日だが少し変だ。そこに突っ込んだ方がいらして、こう表現したことに納得する。「失われた明治 5年12月 3日を悼む記念日」。



 「耳あてをしていってもいいか」という問い合わせがあったという。そうした約束事がどこかであったのだろうか。そういえば30年以上前に町の生徒指導部会でそのことが話題になった。その防寒具は世に出回り始めた頃だ。若き教師は子どもたちを使って実験してみた。その結果を持って部会で発言したのだった。


 花巻の野口塾でお話した方より、「はがき新聞」の実践記録をいただいた。意図的計画的に積み重ねられた重みがひしひし伝わってくる。さらに「スクラップ」と命名して子ども同士の評価を取り入れた点など、非常に斬新で刺激を受けた。私は前任校最後の年に取り組んだが、また機会があればチャレンジしたい。


 タブレットデビューを果たそうと先月本体を購入した。Surfaceはofficeがインストールされていて、この後活用できそうだ。しかし、肝心のネット接続で苦戦。手続きをすました後の機器設定の段階でつまずいてしまった。検索して情報を仕入れているが、まだ道が開けてない。サポートだと時間がかかるだろうな。



 あああ、こんなことにふりまわされてと思いつつ、だらだらと続けてしまうことの多さよ。言ってみれば「外」からやってくる事物への対応だが、その取捨選択に関わる「内」がしっかりしてないからだぞ、とネジを巻きなおす。明治6年を想像してみよう。本日が、なんと1月1日なのだから…って変な論理だ。

ありがちなシーンに惑わされるな

2013年12月02日 | 雑記帳
 週末に,とあるドラマをみていたら,こんなシーンがあった。

 自分のしたことを叱られた中学生の娘が反省せずに,母親に暴言を吐いた。それを聞いた父親が娘を殴る。

 まあ,よくありがちなシーンである。
 問題はこのあとである。

 娘はその場をとび出していく。
 そして父親は自分のした行為を,すぐに反省するのである。

 なんだかなあ,と思った。
 父親はどうにかして謝らなければいけないと思い悩んだりするのである。
 そしてその謝るポイントは暴力行為そのものよりも,いわば強く指導したこと自体を反省している様子なのである。

 結果,このドラマでは娘が先に謝らずに,親が先に声をかけることになる。
 もちろん,その前に娘が関わりのある第三者から諭されるような場があるにはあるのだが…。

 どうもすっきりしないなあ。
 テレビドラマで描かれるこうしたやりとりは,やはり今時の親子関係ということか。
 格好のいい俳優が扮している親であればなおさら,それが良い関係のように見えてしまわないだろうか。


 たまたま今読んでいる多胡輝先生の『しつけの知恵』(PHP文庫)に「『お母さんが悪かった』というセリフは,みだりに使わない」という項目がある。
 実に明快,深く頷ける文章である。

 私は,親子のあいだに一種の”仲間意識”を作ろうとする,子に対する親の甘えが,子に詫びるという行為になって表れているように思われるのです。

 そして,さすがに心理学の大家は,その結末をこう分析してみせる。

 親が子に詫びる行為は,親子のあいだにある「甘い関係」を示すどころか,親が子を,子が親を対立者として見ているという解釈も成り立ちます。


 親子は仲間でもなく,対立者でもない。
 ありがちなシーンが描く関係づくりに惑わされてはいけない。