すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

湊かなえにハズレなし

2013年12月21日 | 読書
 単行本までは手を出せないが、文庫本はこれで全部読みつくしたと思う。今回読んだのは『贖罪』(双葉文庫)。以前、WOWOWで放送されたドラマを無料視聴の時初回だけを観た。なかなかな配役で面白かったが、原作はそれ以上に惹きつけられた。事件に関わる人物の独白体で進める、こういう構成は湊の鉄板だ。


 人間心理の描き方が上手、とごく平凡な誉め言葉になってしまうが、人格や生活や、表情や声までが想像できるような描写は、その世界にどっぷりと漬けこまれるような魅力がある。さらに、どう組み立てれば成り立つかが見事に計算されている。『花の鎖』は時系列を入れ替えながら進めていて、実に巧みと感じた。


 小道具と言えばいいのか、『贖罪』であればフランス人形、指輪、手紙…そうしたキーとなるモノの入れ方も印象的だ。そもそも自分がミステリファンとは言えないから、その程度のことに感心しているだろうなと思いつつ、地域にあるフランス人形巡り?とかその盗難事件を伏線とする設定とか、独特の匂いを放つ。



 そういえば先週『往復書簡』を原作とした「北のカナリア」がテレビ放映されていた。吉永小百合主演ということもあり、多少話題になった作品だ。映画は脚色が強かったように思うが、それでもずいぶんと見所があった。森山未来の演技の巧さに改めて感心した。彼の「贖罪」での二重人格的な演技もはまっていた。



 湊かなえは「イヤミスの女王」と称される。イヤミスとは「読んで嫌な気分になるミステリ」という意味らしい。それだからといって読者が離れるかというと、「女王」は多くのファンがいる証拠。確かに読後感が晴れ晴れし、希望の湧く結末にはならないが、おそらく私たちは人間の闇に引き付けられて手を伸ばす。

自分をつくる選択の連続

2013年12月20日 | 読書
 『あなたがいる場所』(沢木耕太郎 新潮文庫)


 著者初の短編小説集で9編収められている。取り上げられている題材の多くは日常にありがちな「ふつう+α」の範囲にあり,身近に起きても不思議のない出来事とも言える。しかし,誰もが抱えている秘密,事情,都合といった要素が各々の作品の人物の行動選択に大きく関わっていて,読者をすうっと惹きこむ。


 小中高校生を主人公にしている作品が4編あった。また退職した女教師が描かれた短編もある。この作品では,新米教師だった時のエピソードを思い出す場面が上手い。さらっとした心情を表現しているように見えて,その些細な過ちを思いだす「根」の部分が,彼女の人生に深く投影されている重みを感じさせる。


 『白い鳩』は,中学生の「いじめ」問題に関わる背景をもつ。ごく平凡な生徒の現実を描きながら,人間の心理とか習性をえぐりだす感じを受けた。表面的に大きな問題に発展してはいかないが,ずっと心の中に燻り続ける「学校」という舞台での苦い「物語」は,今日もこの国で幾千と展開されていることを想う。


 「人生は選択の連続」と野口芳宏先生が仰ったことがある。この小説の解説に,重なる一文がある。「ひとつひとつ,こっちにいこうと悩んで進んで,その連続の先にいつしか私自身があわられて,今度は私自身しかできようのない決断を迫られていく(角田光代)」…私自身をつくる選択の連続が生きるということ。

本当にため息をついた訳

2013年12月19日 | 読書
 わずか4ページ足らずのインタビューだが、明快な主張が伝わってくる。
 読み終えて、ふうっとため息をつきたくなるほどだ。

 『総合教育技術』(小学館)の今月号の冒頭は作家曽野綾子へのインタビューである。

 教育再生実行会議の委員を辞任した理由から始まる。
 制度を作れば問題が解決するという方向への批判である。氏はこう語る。


 私は制度で教育はできないと思っているんです。


 「いじめ」の肯定を前提とする教育は、そもそも今の流れとは異質と言えるだろう。
 実際はその点を理解している人は多いのだが、広言できない息の詰まる環境が、今の学校教育の場ではないか。
 
 二日前にだらだら書き記した「さらされなければ…」も、結局はそういう場の空洞化への危惧である。

 氏のいわば「自己責任」と括る発想は、競争社会と結び付けられて語られることが多く、一面では危惧を覚えるが、それを踏まえてなお、学ぶ者の心がけとなり得る言葉がここにあった。


 あらゆるものは独学なんです。


 学びを自分から求めていく姿勢づくりこそが肝心と合意すること。
 設備の充実や制度の改革ではなく、今必要なことは、教育の芯となるべき指針である。


 母親から受けた教育のユニークさに、顔がほころんだ。
 娘であった氏に、二つのことを書けなければいけないとはっきり言ったそうである。


 よいラブレターを書けなければいけない。

 うまく借金を頼める手紙を書けなければいけない。



 かなり本質的なところをついている。
 自分はどうだろうか、とちょっと昔のことを思い出したが、それはまた別のこと。
 国語教育、そして「書く」ことを考えてきた者にとっては、十分励まされる声だし、強い味方はまだまだいると励まされる。


 実は、本当に、ふうっとため息をついた理由は、最後の回答にある。

 「管理職に向けてお伝えになりたいことはありますか」と問われ、次のように口を開いた。


 本当に勇気がない。


 その通りとしか言いようがない。

 右を向いたり左を見たり、前後上下にできない理由を探したりしても、結局はその一言に尽きるんだよね、と息をつくしかない。

給食時間に,ジ・アルフィー

2013年12月18日 | 雑記帳
 給食の最初の十分間、本校は「もぐもぐタイム」と名づけて、おしゃべりをせずに食事するきまりとなっている。ふだんなら、よく噛みながら、周囲の子の姿を見ながら、なんとなく過ごすのだが、今日はなぜか(たぶん午前中目まぐるしく動いたからか)変な一言が頭に浮かんだ。「三人寄れば、ジ・アルフィー」


 数日前、ぼやーっと見たお笑い番組で登場した「風藤松原」というコンビのネタだ。ことわざシリーズのようだが妙に耳に残る。給食を口に運びながら、どうしてこれは面白いのか、とはてなモードになって考えた。まず大前提は、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざとTheAlfeeというグループを知っていること。


 この組み合わせの妙はどこにあるのか。通常であれば「三人寄ればモン・・・・」か「三人寄れば・・・・チエ」あたりが妥当であろう。しかしこういう音韻的なダジャレではインパクトは弱い。「三人寄れば、もんじゃ焼き」「三人寄れば、ジャリンコちえ」…なんの脈絡もない。つまり必要なのは前の句との共通性。


 まさしくアルフィーは三人組。その共通項を生かして取り合わせ、意外性を求めることになる。ふと浮かぶ別の三人組で作れば「三人寄れば、少年隊」「三人寄れば、てんぷくトリオ」…いずれも古い(笑)。アルフィーほどの面白みが出ない。そこに「The」の役割がある。「ザ」でなく「ジ」であることがまたいい。


 「ジ」という音を挟むことによって生ずる一瞬の間、そこからアルフィーという音が展開される響きがいい。「三人寄る」という意味とそのグループのイメージがぴたり重なる感じだ。そしてとどめは、ことわざシリーズとして次に続く「雨降って、ジ・アルフィー」である。その「ジ」から「地」の連想性である。


 そうやって発展してきたら「弘法も、ジ・アルフィー」はどうだろう。瞬間的に「字」と「筆」の連想をするのは、あまりにひねり過ぎか。では別に…「千里の道も、ジ・アルフィー」なんとなく語呂がよくないか。では…と「先生、何をにやにやしているんですか」と、向かいの席の子たちから変な顔をされる。

さらされなければ,力は…

2013年12月17日 | 雑記帳
 今朝のラジオ番組は、ちょっと驚いてしまった。今日のゲストはこう語った。「風邪が流行る季節に、手洗い・うがいは控えめに。すると子供には丈夫な免疫がつき、大人になったら丈夫な体になります。」ええっ、これは私達の通常の「保健指導」を覆す考えである。免疫学の権威、新潟大学の安保徹教授の発言だ。


 「風邪をひかない体づくり」がテーマだった。学校に限らず、普通に考えれば、まず「手洗い・うがいの励行」があり、その後に運動面・栄養面・安静面が語られるはずだし、自分も数えきれないほど繰り返してきた。教員であれば同様だという方が圧倒的だろう。それは何のためだったか問われるような考えである。


 医学上の専門的なことはさておく。妥当な手洗い、うがいの機会、頻度について明らかにしようという方向でもない。考えてみたいのは、この発言に見る「人間の力はいかにして身につけられるか」という論理である。つまり「さらされなければ、抵抗する力は備えられない」ということではないか。ここが基本だ。


 飛躍するが、生徒指導上の問題であっても、結局のところはそういう場にさらされるからこそ、解決のために自分が何をなすべきか考えられる。生きている以上トラブルはつきものだし、誰かに守られての回避ばかり続けたときに、それがどんな思考を生むかは明らかだ。そんな子育てを良しとする人はいないだろう。


 しかし、現実は手洗い・うがいの励行であり、罹ったらすぐに投薬治療である。そこに自分の免疫がつくられる余地があるのか。学校という場で基本的に「予防」姿勢の果たす力は大きい。しかし、あまりに徹底した問題発生回避や、迅速な問題処理は、教育として機能しているのかと問いかけてみなくてはいけない。


 そんなことは理解している、しかし…という現実に私達は生きている。いくら職員集団の合意がなっても、それが法規の範囲でさらに諸機関や地域社会、保護者の理解がなければ困難だ。それでも、多様な価値観が渦巻く現況、ポピュリズムに迎合するかのような施策の中で、最初の対応者がかける一言は大きいと思う。

「裏」の持つエネルギー

2013年12月16日 | 雑記帳
 奥田秀朗の小説『オリンピックの身代金』は未読だが,先日2夜連続で放映されたドラマを録っておいたので,休日を利用して観た。もちろんエンターテイメント色が強いが,昭和39年の東京オリンピック開催当時の社会の一断面を抉り出した面もあった。犯人役が秋田出身という背景を持つことにも惹きつけられた。


 高度成長期の輝きの裏に,多くの犠牲があったことは予想できる。出稼ぎ労働者の事故死や過労死は,数字でとらえられる悲惨さだけでなく,貧困さから抜け出せない地方の現実が浮かび上がる。農政の変化,機械化政策,現金収入,過剰労働,違法行為等々,ステレオタイプではあるが,その連鎖も成長していった。


 出稼ぎ先で死んだ夫の遺骨を取りに来た妻(その役が戸田恵子というのも合わないが)が東京タワーで初めてのソフトクリームを食べる。そして涙を浮かべ「夫が死んだから都会に来ることが出来て,こんな美味しいものを食べられた」と語る場面は,実際にそんなふうに思う人がいただろうなと強く印象づけられた。


 犯人役の東大生がいうセリフに「格差社会」という今風の表現があったのは少し違和感を持ったが,その落差は現実のものだった。だからこそ田中某という政治家は熱狂的に迎えられた。「裏」の持つエネルギーの集結だった。反面,その展開ゆえに新たなる固定化された地域社会が出来上がったことも否めない。


 必要があって調べた本に,昭和三十年代の中学生の書いた詩が載っていた。この心情は現在でも,地方の者の隅っこにあるのではないか。「ふぶきよ,東京にふるんだ/東京のガスストーブやレンガの家に/金持の屋根にふるんだ/東京の国会議事堂のまわりにふるんだ(略)ふぶきよ,ごうけつよ/東京にふれ。」 

情報シートとしての「目次」比較

2013年12月15日 | 雑記帳
 校内研修で行った模擬授業で「目次」を扱った。
 非連続型テキストの読解をテーマとした研修である。

 実際の内容はさておき、準備のために調べて面白いと感じたことを一つ書きとめておきたい。
 それは、教科書会社による違いである。

 教材として使ったM社(採択されて使用している教科書)と、比較対象としたのはT社である。どちらも4年下巻である。

 目次をプログラム、リストと考えれば、これはT社の方が圧倒的にわかりやすい。
 これが結論である。

 以下に理由を記す。

 (1) 教材名の字ポイントが、M社は3種、T社は2種となっている。

 (2) 教材名の書き出しの位置が、M社はまちまち(上揃えと下揃えが混合している)。T社は、上揃えを基本として、教材規模?によって頭の位置を変えている。

 (3) ページ番号を記す位置が、M社はまちまち、T社は下揃えされている。

 (4) M社は教材文の種類について書かれていない。T社は(物語)(説明文)などと表記されている。

 (5) M社は、作者・著者名がかなり小さいポイントで、添えられている印象。T社は少し小さめながら、ふり仮名もきちんとふられている。

 (6) M社には、番号数字の他に葉っぱマークがあり、また途中にどんぐりを模したマークなどもついている。T社は番号数字のみ。


 と、まあ…。別にT社と関わりが深いわけではないことは一応断っておこう。

 現物を見れば、即感じていただけると思うが、説明でもなんとなく雰囲気は伝わるだろうか。

 もちろん「目次」を素材として見たときの差であり、その「わかりやすさ」だけを教材選定の理由とするわけではない。
 授業する側としては、わかりにくさを問う場合もあるわけで、その意味では統一感に少し欠けて「探す」必要のあるM社の方がいいのかもしれない。

 M社にそこまで編集意図があったとしたら、すごい。

 しかし、ネット検索してもほとんど「目次」を扱った授業は出てこないので、(高校の授業としてわずかに1件あった)、一般的でないことは確かだろう。
 
 小学校の子どもたちに、初めの情報として与えるのであれば、やはりそれは整然とした情報シートを作るべきではないか。
 多くの場合、非連続型テキストが目指しているのは、そうであるはずだから。

2022年,まず自分が描いて

2013年12月14日 | 読書
 『2022―これから活躍できる人の条件』(神田昌典 PHPビジネス新書)

 この著者どこかで読んだなあ,ビジネス誌かなあと手にはとってみたが,ちょっと縁が薄そうだったので,棚にもどしかけた。
 その時,目に入った本の帯の言葉がそれを引きとめたのだった。

 ■全ての教師は本書を読むべき。そうしないと自分の教え子を,2022年に適応できない人間にしてしまう可能性がある。(40代・男性 小学校教師)

 【本書に寄せられた読者の方からの声】の冒頭に挙げられていた。
 そうか,それでは読んでやろうじゃないか…なぜかそんな気分になった。

 この新書が発刊されたのは去年で,それから10年後までの予測を入れながら,いわゆるビジネスチャンスを探る,個人のライフステージを作っていくために筆者が自論を展開している。

 さて,先の小学校教師の評価をどう受け止めたらいいか。
要はこの本からどんなエッセンスを取り入れられるかなのだが,それは若者向けならば,著者のこんな単純なことばが全てだ。

 こぢんまりと,まとまるな。
 つべこべ言わずに,世界に出ていきやがれ。
 それが,これから10年,キミが活躍するための条件だ。


 しかしいくら何でもこれじゃあ,総論すぎるでしょ,ということになる。

 具体的には,アジアへの目配せや歴史サイクル,企業寿命のことなど知識として身につけたい事項はあり,なるほどと納得のいくことも多い。

 しかし,やはり著者が一番言いたいのは,上のような言葉だし,2022年と掲げていても,結局は固定された場へ向かっての適応を求めていないことは確かである。
 そういう理念を持ち「小学校教師」が仕事をしていくには,もう少し現状を整理し,指導の質量を見直す必要があるなあと思ってしまう。
 さて,そんな余裕を持てるだろうか。

 教師の仕事として2022年に適応できる人間を育てるのは価値があるし,取りあえずの目標にはなるかもしれない。
 しかしまた,その基盤は教師自身が描く2022年のイメージであり,国家,社会,地域,職場,家庭,自分…と見渡し,予想し,部分的であってもその姿を描けること抜きには成立しない。

 「先行きが不透明」という言葉をよく使ってきたように思うが,それは言い訳であったことを認めよう。

学級会を見て,想う,思う

2013年12月13日 | 雑記帳
 六年生が学級活動の研究授業を行った。いわゆる学級会の話し合い活動である。そこでふと思い出したのは、以前勤めた学校で、というより初任地で、二年目に公開研究会があり学級会を取り上げたことだ。自分にとってはとても印象深い。当時、学級会活動という「授業」は、いわば児童主導を一つの理想としていた。


 「いかに教師の出番を少なくするか」…特別活動の実践家でもあった当時の教頭先生から、それがポイントになることを教わった。要するにそれまでの準備が鍵を握る。それは、結局のところ「何を話し合わせるか」「どう話し合わせるか」「どこまで決めるか」を、表現は悪いが、いかに当日まで仕込むかである。


 議題ポストの設置から始まり、計画委員会や司会・記録の指導等々、夢中でやった。当日の記憶はやや薄れているが、司会等への助言もほとんどなく、会は進行した。まずまずの公開授業だったと思う。知り合いの年配女教師から「誰もこんなにやっていない」と声をかけられたことは覚えている。少し自信がわいた。


 さらに自信をつけたのは、翌年その子らが6年生になったときだ。その代表委員会の話し合いぶりを見た新任の校長が、「代表委員会も公開したのか」と訊くほど内容が濃く、絶賛された。ありきたりのことしかしていなかったが、一時期集中して指導したことは子どもたちを成長させ、一定の力を備えたようだった。


 転任してそうした取り組みが継続できたか、と問われると甚だ心許ない。地域環境も学級規模も違う別の場所でも指導を継続できれば、実力もついたかもしれないが、半端だったことは否めない。ただ、一貫して子どもの「やるぞ」と「許さん」は大事にしようと思ったし、依頼された雑誌原稿もそんな観点で書いた。


 今、学校現場で、子どもたちの課外指導や自主的な活動奨励に充てられる時間は、本当に少なくなっている。学級会にかける準備時間捻出には悩みが多いはずだ。しかし、だからと言って特に上学年の場合、この活動をないがしろにはできない。民主主義の一つの形を覚えていくためには、欠かせない時間と考える。


 子どもの手による「やるぞ」の実現、そして「許さん」の決議…こういう合意形成の場を、公的に保障できる時間はやはり学級活動だ。これに関わる能力や態度形成に反対する人などいない。しかし、現実には「○○教育」と名のつく諸活動推進のもとに縮まっていく現状がある。この国の将来も縮まっていくのか。

永遠の謎は希望に…

2013年12月12日 | 雑記帳
 先週末、家族で近場の温泉へ出かけた。のんびりするつもりでいたが、ちょっとばかりの非日常は、なかなかいい人間観察の場になった。雪深いし、そんなに有名ではない場所だが、やはり週末となるとそれなりの人数が集まる。小学生とおぼしきチビッコギャングがいて、少しざわついた雰囲気をじっと見つめた。


 露天風呂に入ってきた少し小太りの男児。子ども用の小さく黄色い風呂桶を、「頭」にかぶっている。そして、やおら「おかあさあん!」と叫ぶ。塀で仕切られている隣の女風呂をめがけて発したわけだ。年長か低学年か。このぐらいが親同伴風呂の境目年齢かもしれないなあ。しかし、まだ声で確かめたい年頃。


 その子はなぜか「機関車トーマスゥ♪」と陽気な調子で、すぐに内風呂へもどっていく。もう一人、父親と一緒の男児がいた。年齢は少し上か。お決まりのパターンで泳ぎ始める。父親が注意されるが、少し範囲を狭めただけ。「あがるぞ」の声も無視して、近くの石の上に裸で立って「修行する!」と叫ぶ。いいぞ!



 脱衣所へもどり、体重計に乗る。あれれっ、こんなに減っている。普段より5キロ減だ。しかし、すぐに目盛調節の問題だとわかる。元に直すと確かにいつも通りだ。体重計から離れ、服を着始めたとき、風呂から上がってきた恰幅のいいおじさんが、体重計へ乗った。しばらく目盛りを見つめ、さかんに首をひねる。


 おじさん、降りる。乗る、目盛を見る、首をひねる。降りる。乗る、片足を上げる、目盛を見る、首をひねって降りる。乗る、別の足を高く上げ…「おかしい!」、首の角度が一層急に。おそらく、風呂の前に調節間違いの体重計に乗ってインプットされたデータが頭から離れない。永遠の謎は希望に支えられている。