すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

煌言14~学びに呼び込む存在

2016年01月19日 | 読書
☆伝達型というよりも非常に参加型の教育観というか、自分がまずのめり込んでいく中に人を呼び込んでいくというような教育観のような気がします。
 佐伯 胖『すぐれた授業とはなにか』(東京大学出版会)


 80年代の有田和正実践を取り上げた、東大の先生たちの討論の中の発言である。
 このような姿が醸し出す、一番のモデルになりやすいのは「いかに学ぶか」ということではなかろうか。

 授業が知識理解にとどまらず、「メタ・ラーニング」を身につける場として機能するのである。
 「アクティブ~」もいいけれど、まず教師が学びに呼び込む存在であろうとする意識が大事だ。

三学期始動、寸描

2016年01月18日 | 雑記帳
 14日。雪の降り始めた三学期始業式。式では、申年にちなんで「サルと人とのちがい」から「考えること」を出し、「正」という漢字を使って「ちょっと、止まって、考えよう」とまとめた。学校報にも少し「サル」に関した話題を載せる。授業日は47日間である。計画的そして即時的、両面をうまく使い分けたい。


 15日。今年初の徒歩出勤。4校時に「冬季の避難訓練」を行う。学校現場の安全確保は、できるだけ想定外をなくすことが課題だ。しかし限界は結構大きい。まず想像力を持つことか。退勤後、向かいの娘宅で地域の小正月行事「みかんまき」を行う。福のお裾わけである。姪っ子たちが集まり、にぎやかな小宴となった。


 16日。朝から個人実践(と呼べないものが多いが)の集約作業に取りかかる。これも9回目、最終となろう。質は下がる一方だがまとめて「卒業」!したい。身内の用事で湯沢の某所で打ち合わせ。今は入院している肉親もいて、し目まぐるしい時期になっている。昼に食べた市販品の「えびみそラーメン」が美味い。


 17日。朝8時から車庫の雪降ろし作業。天気がよくて良かった。降ろした雪の処理も含めて3時間弱。ふだん運動不足の身にはこたえる。ただ昼のノンアルビールが美味しかった。今日は阪神・淡路大震災があった日。21年前のこの日は始業式。断片的な記憶から「よそ事」のように感じていた自分が今は恥ずかしい。


 18日。第二週が始まる。関東周辺の降雪の情報で騒がしい。今日も徒歩で出勤する。明日、荒天の予報があり計画されているスキー教室の対応も相談する。昼は読み聞かせ、12月に6年生に選んだ『ぼくのニセモノをつくるには』を、今日の3年生でも読んでみた。当然反応には違いがあるが、面白さは天下一品だ。

煌言13~教師が聞くこと

2016年01月17日 | 読書
☆子どものどんな話からも自己の指導を見直し、自己を再組織し、再創造することができる。いや、そのように、子どもの話を聞くべきである。
 家本芳郎『教師のための「聞く技術」入門』(高文研)


 「聞く」ことの本質とはそうあるべきと痛感する。

 拒否的な言葉を投げつけられたとしても、それが何度も繰り返されたとしても、受け入れる、あきらめない、工夫する…その営みを続けることが仕事なのだと思う。
 現実に求められるのはタフさだし、対応は微力であってもいいから、ねちっこさを持って、耳と目を使っていくことだ。

煌言12~創意と冒険に踏みこむ

2016年01月16日 | 読書
☆授業は毎日のことです。その毎日を、地道に、けれん味なく、そして、他方、創意と冒険に踏みこんでいく。この矛盾した、歩幅と歩調が、わたしたちの国語教室で統合されるとき、子どものことばと、心の成長が産み出されてくるのだと思います。
 青木幹勇『いい授業の条件』(国土社)


 「矛盾した、歩幅と歩調」はある意味で、実践者の象徴と言えるかもしれない。
 そのための「創意と冒険」を、どのレベルで発揮できるかは環境によって異なるだろう。

 しかし、小さくとも、限定されても、どこかでそれらが組み込まれている毎日があれば、そのゆらぎが子どもの育ちに働きかけるのは間違いないし、それなしに充実感も生まれない。

煌言11~学力と人格という意識

2016年01月15日 | 読書
☆教師はけっして「学力と人格」を論じるべきではありません。私たちが論ずるべきは、「学力の形成と人格の形成の関係」であり、「学齢期には学力形成が人格形成を牽引する」というテーゼです。
 久保 齋『一斉授業の復権』(子どもの未来社)


 教師が「つくっている」のは、子どもの学力と人格である。
 このストレートな表現に正対しようとするときには、いくつかの条件や原則について考えを巡らさなければならない。
 目前のこととして見れば学力→人格ということ。そして長期的には人格→学力も大きいということ。何より切り離して考えられないこと。

 どのような学力を、どんなふうに形づくっていくかという指導者の意図的な営みのなかに、感化、陶冶される要素があり、その点について意識を離さないことが求められる。

冬休み後半軽読書

2016年01月14日 | 読書
  『架空の球を追う』(森 絵都  文春文庫)

 短編が11作収められている。いやあ、手練ですなあ、という感想をまた持ってしまう。特に表題作は、単に小学校の野球の練習風景を描いているに過ぎないのだが、妙に生々しく心に迫ってきた。また「夏の森」という作品も、百円ショップで見つけたカブトムシと、かつて「自由奔放な女になりたい」という気持ちを持った記憶が、何か手品でもみたように鮮やかにつながり、小説の面白さというものを存分に味わえた気がした。



 『大切なことは60字で書ける』(高橋昭男  新潮新書)

  「名文より明文」という著者の主張にそって展開される、文章作法である。自分も共感するのだが、なんとなく「名文」にほのかな憧れを抱いてしまうので、結果「迷文」になってしまうことがよくある。最後に著者が言う「とにかく書く」は及第点をもらえるが、肝心のところが守られていない。2つの問題はそのまま、自分の駄目な点でもある。「メッセージを意識しないで文章を書いている」「メッセージを光らせる手立てを使わずに文章を書いている」


 
 『嘘みたいな本当の話』(高橋源一郎・内田樹 選  文春文庫)

 「自分たちの人生で起こった、風変わりな、もしくはかけがえのない出来事について書き記した」文章を募集した作品集。アメリカのラジオ番組での企画を、日本版として編集した。個別の作品も味わい深いが、アメリカでの投稿内容と日本のそれとの比較を、内田教授が語っている箇所が特に面白い。内容より文体にこそ個性が表れることは前から語っていたが、国民性さえも如実に表れるとは、一つの発見であった。それから「届く言葉」について、かなり自分にとって画期的なことを書いてあったので、目を見開かされた。

煌言10~挫折の権利を奪った

2016年01月12日 | 読書
☆戦後の人権教育はとんでもない迷路にはまりこんでしまっているのである。すべてを平等にすること、美しい言葉を散りばめることは、じつは子どもたちから「挫折の権利」を奪うという重大な「人権侵害」にほかならないことに気づかなかったのである。
 小西正雄『「戦後民主主義」と教育~呪縛を解く』(明治図書)


 この逆説めいた激論は、次の文章で心にストンと落ちる人も多いだろう。
 「挫折体験こそは、他者の人権を守るという意識を培う上で必須の条件なのである。」

 否定、拒否、叱責、落胆、絶望、…そうした行為や心情を体験せず、つまり自らの弱さを心底感じとれない者が、差別されている人たちにどこまで共感できるか。

 教育は単純ではいけないし、もっともっと多方面から、ある意味で闇の部分も含めて検討されるべきだろう。特に学校は変な磨かれ方をされてしまった。

煌言9~子どもの代理的な行為

2016年01月11日 | 読書
☆テンポがよく停滞しない授業は、何より子どもたちの集中度を高め、ストレスを高くしない。また、こうした教師の対応は、周囲の子どもたちの代理的な行為となる。つまり、「私もそう聞きたかった」「僕もそう言いたかった」という思いを、教師が代わりに具現化するということになる。
 山田洋一『対話術』(さくら社)


 テンポがよい、リズムがあると言われる授業は、綿密な計画性があればいいというものではない。
 即時性のある対応をしながら、流れを見失わずに進む指導だ。
 そのために、学習過程のなかで派生する子どもたちの考えや思いをいかに想像できるか、個々の局面での表情、雰囲気を読み取れるかが問われる。

 これは資質もたしかにあるが、場を踏むことによって培われる面が強いと言っていいと思う。

煌言8~書き続ける意義

2016年01月10日 | 読書
☆「たより」を出し、「校長が書く」そのことが、すぐ子ども達に働くのか、と言われそうだ。が、そう単純に思ってはいない。――働き、運ばせるためには、やはり懸命に書かねばと思う。徒に説き、教えして、効を求めることを決して急いではならない。―――と考えている。
 飯沼 宏『村上小の「学校だより」抄』


 時々小文を載せる形で学校報を発行し続けた。
 ずいぶんと長い間関わってきたので、いつかそのふりかえりはするとして、残された期間の中でも書き続けることになろう。

 時代や形式は違っていても、要は「懸命に」書いてきたかということである。
 急いで「効を求める」ことはしなかったが、非力さは時々沁みた。
 けれど続けられたことは一応前向きであったと評価できるかもしれない。

煌言7~教育の公益性を見失わない

2016年01月09日 | 読書
☆学力形成において、子どもが背負っている様々な条件の有利・不利は著しい。公教育はこれらすべての子どもに対して機会と結果の双方において平等でなければならないのではないか。そしてその点にこそ、個人の権利保障を基盤とする近代社会における教育の公益性があるのではないか。特権的な人々の利益に奉仕する教育を、公教育とは言わないからである。
 鍋島祥郎『効果のある学校』(解放出版社)


 「機会と結果の双方において平等」という言葉の重さに、思わずたじろいでしまう。

 機会の平等は信念さえあれば可能になるが、結果の平等はそれに加えて、条件の格差を乗りこえる技術なしでは実現しない。
 さらに言えば、個を見る力、社会風潮に惑わされない心…様々な要素や障壁が思い浮かぶ。

 ただ、だからと言って、その目的地を思い描くことを捨ててしまってはいけない。
 仕事の糸がつながっている先を見失わずにいたい。