すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

煌言44~ある意味の公私混同

2016年03月19日 | 読書
☆学校の仕事という「公」の中に、ささやかな「私」の発想を持ち込んでみよう。自分を高めることにもなる。むろん「公私混同」がよくないのは、言うまでもない。
 佐藤正寿『価値ある出会いが教師を変える』(学事出版)


 この提案、精神が教師生活を豊かにするだろう。

 考えてみれば、公教育の中に積極的に「私」を発揮することは、教師の醍醐味の一つと言ってもいい。
 また、やるべき仕事、与えられた環境の受けとめ方として「私」の部分に転化できる要素を持とうとすることは、タフでハードな環境を生き抜く術でもあろう。

 その視点で語れば、ある意味での公私混同こそ推奨される。

 「出会い」は初めから「価値ある」ものではなく、あくまで価値づける当人の姿勢の表れなのである。

煌言43~可能性を形にする仕事

2016年03月18日 | 読書
☆皆さんのなかにいっぱいある可能性も、皆さんがそのときどきに表に出してみなければ、どういう可能性があるかわからないものです。私は可能性というのをそう考えているのです。そこで学校教育という仕事に限ってみますと、目に見えない可能性を一つの形として出す作業がわたしは学校教育だと思う。
 斎藤喜博『全集3「授業小言」』(国土社)


 新採用になった頃、ずいぶんと「可能性」という言葉が使われた気がするのだが…。それは個人的な経験の記憶だろうか。
 いずれ斎藤喜博がよく使ったフレーズであることは確かだろう。

 「見えない可能性を一つの形として出す作業」…そんなふうに教師の仕事を位置づけてみることは、少し新鮮な気がした。
 たぶん、そこには「信ずる」という強い思いと、「引き出す」「形づくる」「根付かせる」技術が重なり合わなければいけない。
 シンプルに教職を考えさせられる。

煌言42~自分と組織を視る

2016年03月17日 | 読書
☆有無を言わせぬ形で、学校という場所が営々と保持してきた秩序(制度)に回収されていく子どもたちの中には、それで心地よいという者もいるわけだが、決定的に傷ついてしまう者もいる。それはいわばブーメランのようにして、今度はまた私たち教師のもとに帰ってくることもある。
 石川晋『教室からの声を聞け』(黎明書房)


 そういう認識から遠く離れた教師。
 少し認識はしているが、行動しない教師。
 認識して、自分なりの努力を続けている教師。
 認識するゆえに、うまく立ち回れず自らを責めてしまう教師。

 明確に区分はできないかもしれないが、様々なタイプが混在するのが学校現場だろう。

 いずれ、それが組織として機能するためには内向きであってはいけない。
 と同時に、共感的な姿勢を示しつつ仮面をかぶっている輩(自分の仮面さえ気づかないかもしれない)には、注意深く接しなければならない。

かくして最後の式辞は…

2016年03月16日 | 教育ノート
 素晴らしい卒業式だった。
 手前味噌にはなるが、鍛えられた六年生の作法や態度は文句がなかったし、呼びかけ、歌も小学校としては高いレベルで満足できるものだった。
 自分の仕事は証書授与と式辞である。
 もはや10回目。
 しかし最後であるので、文章は完全書き下ろし(笑)である。練習時からスムーズに読めた気がする。

 出だしはこんなふうに考えた。

 「春」という季節を表す言葉は、なにをもとに「はる」と言うようになったか、三つの説があります。
 一つは皆さんも想像できるように、天気がよいという意味の「晴れる」から。
 二つ目として、温かくなり、草や木の芽が、ぴんと「はる」という意味から。
 そして、三つ目は何かというと、田畑、田んぼや畑を「はる」…これはちょっと難しい言葉ですが、開墾する、切り開くという意味で、「ほる」ということに近いのかもしれません。

 五十名の卒業生が旅立つ季節は「春」。
 晴れ晴れとした天気のなかを、気持ちをぴんと張って、そしてこの後の中学校生活を、切り開いていく…その門出の一日を迎えることができました。


 我ながら、なかなかの出来ではないか。
 語源ネタはよく使ってきたが、「はる」は初めてである。卒業式にはふさわしい展開だと考えた。

 子どもたちの成長や活躍を称えた後に、激励の一言となるが、今回はなっなんと「スマップ」ネタである。
 年明けの解散騒動はともかく、今回の卒業生の生まれ年にあの「世界で一つの花」が生まれ、ヒットしたことから取り上げてみようと思い立った。

 よく言われた「№1とオンリーワン」の違いに少し触れながら、オンリーワンであっても努力なしに出来ないことを語った。

 そして、その締め括りは次のような文章とした。

 ただ「努力」は、必ずしも身を結ぶとは限りません。いつか話した「努力のつぼ」という話に似ています。
 この先も、せっかく頑張ったのに…と思うことの方が多いのかもしれません。しかし、それは無駄ではないのです。

 「世界に一つだけの花」をうたったスマップのリーダー、中居正広さんがこんなことを言っています。

 「努力は、成功は保証しないけれど、成長は保証する」



 少し補足しつつ、もう一度中居くんの言葉を繰り返し、来賓、保護者へのお礼を述べて結びとした。

 聞き手として非常に優秀な六年生だったので、少しは伝わったかなと思う。


 「スマップネタでくるとは…」「あの歌は…」と、式後に職員に話題にしてもらえたことも嬉しい。

  かくして最後の式辞を終えることとなった。

煌言41~自尊感情のモニター

2016年03月15日 | 読書
☆まず現場教師である以上、子どもの学力に対して責任がある。しかし学力を上げるためには「自尊感情の向上」が不可欠である。(中略)「自分の授業に対する子どもたちの満足度」を常にモニターする努力が必要だろう。
 上條晴夫『子どものやる気と集中力を引き出す授業30のコツ』(学事出版)


 授業の評価を子どもたちに訊いた経験はあるのだが、満足度をモニターする意識はそんなになかったことを反省する。

 今、この文章に触れて、何のためのモニターかと考えると「自尊感情」を見るためということになる。
 つまり、子どもが自分で「賢くなった」「自信が持てた」「興味が湧いた」などといった点について感じられる部分を探してみるということだ。

 それらの焦点化が、次の授業づくりの骨子となっていく。

煌言40~普通から正常へ

2016年03月14日 | 読書
☆苦しい、楽しいという問題は、教えるということにとっては、二次的な要素なのです。それよりも学ぶ側に充実感が生まれるかどうかが大事なのです。やっているときは多少苦しい、けれども充実感があり、終わったときには楽しい。それがノーマルな教育です。
 齋藤孝『相手を伸ばす!教え力』(宝島社)


 たしかに「ノーマルな教育」がやり難くなっている。
 多少の苦しさに耐え切れなくなっていることが「普通」になってきている。
 ある意味ではその状態がノーマルと呼べるということか。

 しかし「普通」ではなく、「正常」という域での教育のあり方を守り、進めるべきだと思う。

 そのためには、教員としての裁量権や周囲との合意等々、問題はあるのだが、まず教師なら多少の苦しさを乗り越えさせる技術を持たなければならない。

煌言39~国語の基礎学習ということ

2016年03月13日 | 読書
☆国語教育だけでなく、すべての学習の基礎は、他人の話を「落ち着いて聞く態度」である。これを養成するのが国語の基礎学習と呼ばれるのにふさわしい。
 市毛勝雄『国語力を育てる言語技術教育入門』(明治図書)


 現場感覚としても、徹底しなければいけないこの活動が少し危機にさらされている。

 それには様々な原因が考えられるが、まず教師が手をつけるべきは自らの指導内容と指導法である。

 「読み聞かせの継続」「聞く・話すことの教材開発」そして、「教師の話し方」「書くこととの連動」などチェックしてみるべきことはたくさんある。
 流行のものに目を奪われ、そうした研修が御座なりにされると、いよいよ危ない。

それぞれの春、近づく

2016年03月12日 | 雑記帳
 今年の3月11日は式予行の日となった。いつもより早い気がする。証書は苦労しながらも2日前に書き上げた。今年の、というより最後の証書書きでは今までないものを使ってみた。「濃墨」である。以前購入していながら、なかなか使う機会がなく今回試してみたら結構これがいい。少しは下手さをカバー?できたか。


 式辞…これも10回目。ここ数年、以前書いたものから一部借用(といっても自分で考えたことだが)という形が常だったが、今回はまったく新バージョンになった。しかも結構長い。量としては、一番かその次あたりだろう。思いついたことを書き始めたら、ついだらだらとなった気がしたが、読んでみたら、案外いい。


 予行ではもちろん式辞を練習するわけではない。進行についてちょっとだけ話すのが常だが、今年は3月11日であり、震災のことに少しだけ触れた。そういえば、あの年、週明けに全校集会を開いて話し始めたとき、途中で絶句したことを思い出した。後にも先にもそんな経験はしたことがない。その頃の心を想う。


 放課後に式予行の反省会をする。りっぱな態度であり、言うことなしである。「本番はもちろんそうだが、式までの準備や練習の教育的価値は大きい。今日の姿を見て、本当に有難いと思った」ということを述べた。あとはアクシデントや失敗への対処しかない。いや、近隣校でのインフルエンザ蔓延が何より怖い。


 今日は朝から祝賀会用のDVD制作にかかりきりとなった。午後は3時まで、中学校卒業式へ出席。送辞の男子生徒が思い溢れて涙をこらえながら話す姿を初めて見た気がする。きっとそれは幸福な一瞬に違いなく、本当に肩を叩いてやりたくなる。ありきたりだが、「それぞれの春」が近づいていると強く感じる。

煌言38~それゆえ、理念を

2016年03月10日 | 読書
☆「テストは子どもの実力の一面を明らかにできるに過ぎない」ということは、よく分かっている。であるが、同じように「子どもの実力を計る客観的指標としては優れている」ことも分かっている。テストに代わるものを創り出すというのは、“理念”としては美しい感じがするが、“事実”としては天文学的な時間と労力を要する。
 伴一孝『子どもに力をつける基礎・基本の徹底システム』(明治図書)


 笑顔を見せて撫でてやることはきっと犬や猫にも通用する評価であるが、100点といった数字での評価で喜ぶのは人間だけだ、というようなことを言ったのは、伴先生ではなかったか。
 妙に納得したことを覚えている。
 ペーパーテストと点数による評価は同義ではないが、評価する側、される側に明確に示されることは特徴だ。

 しかし、根本には何のための評価かという問題が横たわっている。
 一歩突っ込み、誰のための評価かとも重なる。

 数字が明確なことはわかる。
 それゆえ数字が表す客観的指標を分析し、役立たせようとすることは、自ら理念を持たなければ、何者かによって利用されるだけとも言えるのである。
 

「反省するな」と念じて書く

2016年03月09日 | 雑記帳
 毎年、自己嫌悪に陥る定例の仕事がやってきた。卒業証書の氏名書きである。この時期ばかりは、もう少し書写・書道に精を出すべきだったなと後悔する。そしてすぐ忘れるから繰り返している。結局のところ、諦めているのかな。毛筆でなくペン字もそうだが、どうも書く文字の不安定さ、一定感の無さが際立つ。


 小学校の5,6年生担任のK先生は書道が堪能だった。希望者には「書友」という月刊誌を紹介し、月に一回課題を書いて送ることを薦めた。自分も含めて何人かは参加したと思う。昇級があることが励みで一定期間続けた。中2ぐらいまでやった気がする。最終的には2段だったか。その割に、上達感はなかった。


 高校はなかったが、大学では書道の授業をわずかながら受けた気がする。しかし具体的なことはさっぱり思い出せない。一応は国語教育を志していながらこの向学心のなさを今さら嘆く。仕事につき「教える」ことに関しては、結構はまった。当時「邪道」と呼ばれた「かごうつし」「ほね書き」指導はいい思い出だ。


 上達するぞと発起して、通信教育を2年ほど続けた。ここで自分の癖に気づく。添削を仕事にしている方々はさすがと思った。いい点も認めながら鋭く改善点を指摘してくる。具体的には例えば画数の多い字は膨らむ傾向があり、なかなか直らない。草書やひらがなまで進んだのだけど、確信の持てる書き方には程遠い。


 新任教頭で赴任した時のK校長は、毛筆の達人だった。教えてほしいと数カ月ほど手習いしたが、身につかなかったのは全く自分の怠慢だ。結論めいたこととして、精神の不安定が字に表れると悟った。今、証書を書いてもその繰り返しであり、一文字書いてがっくりきている。「反省するな」と念じて書く日が続く。