すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

煌言37~「にもかかわらず」の地点

2016年03月08日 | 読書
☆説明を聞いている子どもは、結論に注目はするが、論理展開の方法や事実把握の仕方、表現の方法等には注目しない。学ばなければならないことは、論理展開の方法や事実把握の仕方、表現の方法等である。これらこそ、学ぶべきなのである。にもかかわらず、子どもはこれらのことを学ばない。
 大森修『子どもが「参画」する学習活動を作る』(明治図書)


 今でも子どもはよく「当たった」という表現をすることがある。
 答を導き出す過程より、結果そのものが大切というクイズに近いイメージなのだろう。
 いわば、結論としての知識が、まだまだ幅をきかせている。

 知識基盤社会と言い、汎用性のある技能や、能動的な姿勢こそ重要であると、誰しも頭で思っていても、実際はまだその地点まで距離があるのではないか。

 今、どのあたりか。次のステップでどれほど近づくか。
 これは教育現場の課題でもあるが、大人社会全体に蔓延っている文化の問題でもある気がする。

煌言36~教育の選択が提起すること

2016年03月07日 | 読書
☆学校は「選ぶ側」であり、子どもや保護者は「選ばれる側」であったから、そこには対等の関係は生まれなかった。一種の閉塞感が漂い、子どもと保護者の間に、不満や批判が静かに沈殿していた。
「選ばれる側」に身をおくことで、これまでの教育活動を、真の意味で子どもや保護者が満足するものに変えていこうとする意識が高まる。

 向山行雄『平成の校長学』(明治図書)


 10年以上前のこの認識と識見はどう教育界に働いただろうか。

 地方の多くは、例えば「学校選択制」にはまだほど遠い現状であり、近い将来の話でもない気はするが、選択を求める保護者の意識の変化はある。
 しかし、そのほとんどは「個」の希望、しかもいわば目先の興味・関心に基づいた選択に見える。

 選択の幅が拡がることは喜ばしいのだと思うが、その良さを活かすほどに社会が成熟していない。
 顧客の満足度を何を基準に計るか、また、教育はその観点の重視で充実するものなのか…これは行政の根本に据える問題である。

煌言35~学びの体幹づくり

2016年03月06日 | 読書
☆私の実践の基本的な考え方として、「学習能力を上げる」というのがあります。世間では「学力を上げろ」「学力向上」とよく言われますが、「学習能力を上げる」とは誰も言っていません。学習能力を上げてから、学力を伸ばすことができるのです。 杉渕鉄良『子どもが授業に集中する魔法のワザ!』(学陽書房)


 「学習能力」が高い子どもとは、集中力があり理解に優れ、様々なことに適応していけるといった姿を表しているか。
 当然ながら、意欲がその根底にある。

 少し連想していくと、例えば「体幹を鍛える」といったイメージが湧いてくる。
 その意味では、やはり基礎的なトレーニングを、いかに持続させるかが鍵である。
 興味づけ、励まし、伸びを実感させ、成果を共有する喜びに浸らせる。

 熱くなれる要素を持つことが、学びの体幹づくりだ。

誕生日を読み返してみる

2016年03月05日 | 雑記帳
 5年前、つまりあの震災の年の誕生日は土曜日だったことを思い出した。
 家人と出かけた記憶があるからだ。
 その中身ではなく、読書の記録を残していた。
 「こんな日に『苦役列車』」とは、なかなかのタイトルではないか。
 2011年3月5日(翌日アップ)


 4年前、ずいぶん段取りよく仕事を進めている月曜日だ。
 今年の進捗状況は心許ないが、まあ余裕綽々と解釈しよう。
 それにしても、タイトル「平凡で劇的な誕生日の物語」が示すように、衝撃的な展開の夕餉であった。
 2012年3月5日(翌日アップ)


 3年前、「新たな戦いの日の始まり」という題からは何事かと思わせる。
 しかし、例の天敵の季節ということだった。
 天気がよくなることを素直に喜べない身体が悲しい。
 前任校のホームページの記録を懐かしく見た。
 こんな形で残してきたが、いずれも放置されていたり、消滅してしまったり…
 2013年3月5日


 2年前、なんとなく仕事師といったイメージで書いている。
 まあこの時期は、誰でもこの程度はいそがしいのだけれど。
 「平凡な一日の仕事日記」と題したが、年度末の締めくくりを控えている緊張の雰囲気が出ているなあと思った。
 あの道徳の帯単元は結構楽しかった。
 2014年3月5日


 去年、悲哀めいた心情が流れているのは、さすがに寄る年波か。
 また、「めでたくもないが」と書いている一種の「めでたさ」も感じる。
 いずれ「カラフルな傘を見つめる一日」と題した日から一年が過ぎ、確かにあまりに「カラフルな傘を見つめ」てきた日々だったな、と今思っている。
 2015年3月5日













煌言34~意図を持って連れてゆく

2016年03月03日 | 読書
☆子どもがそのとき、興味を持つべきことに興味を持つように連れて行く、指導する、それが教師だと思います。子どもの興味を大事にするけれど、ぜひ関心・興味を持ってくれなければならないことに、きっちりと、向けて行かなくてはならないのです。ただ子どもの後をついていくのではないのです。かといって、先生の押しつけではありません。
 大村はま『灯し続けることば』(小学館)


 「興味を持つべきこと」があるのだ、ということはある意味の教育的信念である。
 また、それを志向できなければ、少なくとも公教育の教師たりえることは難しい。

 子どもの「面白い」「やりたい」にも、明確にレベルが存在し、それをきちんと見分けねばならない。
 活動の価値判断を的確に行い、意図を持って連れてゆく。
 その前提があるからこそ、いろんな所に寄り道もできる。広がり、深まりには核があることを忘れてはいけない。

マーチの日(3/1)を跨ぐ

2016年03月02日 | 雑記帳
 2月29日。ほぼ日サイトでは今年も「サボる日」と決めて告知している。羨ましい限りである。4年前もそうだが、とてもこの時期には堂々と休みをとる状況にない。ちなみに4年前のことは翌日にブログアップ。このことをネタにPTA全体会挨拶の導入にしてみた。だが4年後はきっと「ふつうにサボる日」だ。

 全体会でいつものように小噺を入れてみたが、やはり力足らずで大ウケまでは到らない。かえって「力を入れて学校小噺を作った」や「家でやったらウケなかった」というエピソードの方が笑いを誘う。皮肉なものだけれど、現実はそうなのだ。意識したものほど受け入れられない。自然体で語る境地は遠かったなあ。

 ☆

 3月1日。荒天。北海道の酷さに比べられないが、この冬には珍しい風雪。遠距離の子どもたちはほとんど車で送られてきたようだ。今日は初任者への講話が計画されていた。対話的に今年を振り返ってもらった。職場全体に支えられた成長が著しく、頼もしい限りである。明日の研修にも協力してもらうことにした。

 午後は全校集会。「小さなことのできる人」という話をする。きっと小学校教育とはそういう習慣をつける場所だ。学校評議員の方が来校し、授業参観と懇談をする。直截な意見をいただいた。その後、保護者からの相談をうけ、最後は統合に関しての協議を1時間ほど。自分がいない来年度のことを色々決めていく。

 ☆

 3月2日。朝から教委へ昨日相談したことを連絡。午後から研修に備えて、資料印刷をする。2校時に6年生が体育館での式練習をスタートさせた。初めてだけれどしっかりしているし、何の心配もない。今日は打ち合わせのある日などで、卒業祝賀会に向けた計画を話す。その後、査定会、最後の全体研修と続く。

 今回は私に語れという厳命(笑)があり「思い込んだら『重いコンダラ』」と題して、思い込みを捨て自分の工夫や願いを出そうと30分ほど話した。拙い実践しかないので半端なのは承知していたが、優しい同僚に恵まれ、気持ちよく終えた。最後はサプライズで豪華な誕生日プレゼントをいただく。感謝感謝である。

横並びと我慢と消費

2016年03月01日 | 雑記帳
 深夜番組を観ることは珍しいのだが、番組表でオッと思った時に録画することがたまにある。『月曜から夜ふかし』というトーク番組で我が秋田のことが取り上げられていたので、観てみた。なかみは二つ。「なまはげ、高齢者問題」と「男子高校生がコートを着ない問題」。そう言えば、どちらも耳にしたことのある問題だ。


 「なまはげ」は確かに後継者が少なくなっているだろう。これは伝統行事に限らず人口減、少子高齢化が進む地域では、何を取り上げてもそう言える。おそらくは観光化されない伝統行事にあっては、何らかの形で簡略化が進み、維持していくための工夫がされている。だから、逆に言えば問い直すチャンスでもある。


 「男子高校生のコート」は、かなり前にあるカウンセラーの講演で印象にある。そう言われれば結構以前からそのような傾向だった。テレビで取り上げられた現役高校生の声は「コートが合わない」「格好悪い」という見た目の理由に加え「みんなが着ていない」と語った。いかにも地方都市、田舎の横並び意識が特徴的だった。


 いい歳の県民からみると、その特定年齢層限定の横並び意識はある意味メンコク感じる。しかし、それを始めた最初の一人は「やせ我慢」だろうと想像してみたとき、そのやせ我慢する姿に同調して徒党を組んだり、それになびいたりして増えていき、ごく普通の格好した者が異端視されるとなると、いかがかなと思う。


 こうした横並び意識は、例えばブライダル産業という場でも典型的だ。「お客様の要望にお応えします」と言いつつ、セット化された内容、半押しつけ的なプログラムが一般的で、崩すとなると結構なエネルギーが必要になるから、まあいいやと済ませてしまう。それが益々盤石な消費的文化を作り上げる。改めたい。