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夢も希望もない行動に込める詩

2016年07月16日 | 読書
 『民主主義は止まらない』(SEALD s  河出書房新社)


 読み終わって久しぶりに思い出した言葉がある。

 「人は誰でも25歳までは詩人である」

 誰の文章なのかは、今となっては思い出せないが、大学生か就職してすぐの頃に出会ったのだと思う。そして時々ふっと甦ってくる。
 それは、何か自分自身への言い訳にもなっていたような気がする。

 この本は端的には政治へのかかわり方について書かれてある本だが、SEALDsのメンバーの文章、特に後半部を読んでいると、まるで詩を読んでいるような心持ちにさせられた。
 いや、やはり詩そのものなのかもしれない。


 「民主主義ってなんだ」と問いかけるとき、それは何も知らない。我々は誰に届くとも知らず「民主主義ってなんだ」と問い続けるだろう。「これだ」とは未来である。根拠は未来へと伸び続けている。(羽鳥涼)


 「命を守れ」。小さな声は、隣の小さな声に重なっていった。5年前、70年前、誰かが蒔いた種が私の足下で芽吹いている。理不尽を前に人知れず彼女が膝をついたその道が、私の足下まで長く延びている。(大澤芙実)


 彼らの行動力は言葉を呼び寄せ、他者に働きかける力を持っていると思う。
 私は、それだけで叶わぬ憧れを抱いてしまう。

 自分たちが指をくわえて見ているうちに、衰退してしまった「民主主義」というものを、より俯瞰した視点で見ている気がした。
 提起したのは、つまりは「進め方」の問題といってもいいのかもしれない。
 この、煮詰まってしまったようにみえる社会に、揺さぶりをかけられているようで、ある意味とても清々しく思えた。



 メンバーとの対談相手である内田樹は、いみじくもこう語る

 「僕たちに出来るのは、せいぜい破局の到来をちょっとでも遅らせる。時間を稼ぐ。そういう(略)夢も希望もない政治的行動じゃないか」

 夢や希望について一律に判断できることではない。
 しかし、時代認識として大きく逸れてはいないだろう。

 それを踏まえつつも、ただ「政治的行動」の中に込めることが「民主」主義であれば、それでいいのだ。

 そのためのしなやかな決意を、若い人たちは真摯に語っていた。