すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

『流』のスケールを想う

2016年07月13日 | 読書
 『流』(東山彰良  講談社)

 『火花』同様、今さらの読書記になる。昨年、直木賞をとったときにひどく気になった。その訳は選考委員たちのコメントがかなり刺激的だったからだ。「二十年に一度の傑作(北方謙三)」「これほど幸せな読書は何年ぶりだ?(伊集院静)」「エンタメ界の王貞治になってほしい(東野圭吾)」…読みたくならないのが不思議だ。



 五月には台湾旅行もしたし、満を持して(笑)この長編小説を開いてみた。ううむ、確かに話の筋は面白い。ただ、当然ながら人名が中国語表記なのでその点がわかりにくい(読解能力のせいと思うが)。ふと連想が湧いたのは、伊集院静の自伝的な作品群、そして五木寛之の『青春の門』だった。エネルギーが類似している。


 過酷な時代、環境を背負う若者に、暴力的な要素が加わり、波乱万丈さを紡ぎ出す事件が重なると、必ず突き当たる理不尽さ…といったパターンも見える。しかし、中国や台湾を背景にしたスケールはちょっと理解を越えたところも正直ある。世界中の常識がいくら加速しても、行きわたらない場所が必ずあるように。



 台湾に出かけたときに様々な史跡を巡りながら、この国が歴史の中で翻弄されてきたことは痛感したし、本文と重なり合う箇所も感じながら読み進めた。そしたら、中国本土について、思わず膝を叩きたくなる表現に出会った。「この国は、大きいものはとてつもなく大きく、小さいものはあきれるくらい卑小なのだと。」


 続く文章にも深く頷いた「ちっぽけな台湾や日本のような平均化を拒絶する」。しかし、このストーリーに照らし合わせると、日本の平均化のレベルは台湾のそれとは比較できない気がした。題名「流」は明らかに「血」をイメージさせる。我が国も一つの「血」の流れが支配し始めているが、少し黒く変色している。