すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

アネコとゴンボ

2016年10月18日 | 雑記帳
 昨日書いたやくみつる氏のトークのなかに、方言の話題があった。言語ハンターを自称する者としては、この機会にもう少し深く確認したい事柄なので項を起こす。まずは「アネコムシ」。当然多くの人が知っているように「カメムシ」が正式名称(総称ということ)である。やく氏から逆にその由来を訊かれていたが…。


 もちろん「姉っこ虫」。どうして「姉っこ」か。『秋田のことば』によると「カメムシの発する特有の臭気を女性の脂粉になぞえられたもの」と意味づけられている。脂粉とは白粉を指すだろう。これは男性側の一種の照れなのか、実際に山間部の女性がつけるとそんな匂いなのか。いずれ今だと女性蔑視と言われそう。


(これが、やく氏の紹介された綺麗なカメムシの「アカスジキンカメムシ」です)

 もう一つ、ご両親が鹿角出身であるやく氏が使った「ごんぼほり」がある。「ゴボウを掘る」ということ。聞いたことがない。人間の性格を表す言葉として「頑固者」のニュアンスを持つ、という話であった。その時はなるほどと思ったが、実は『秋田のことば』には挙がっていない。「ごんぼねる」がそれに該当するようだ。


 ところが意味は少々違う。ゴボウの掘り出しが容易でないことから「駄々をこねる」「管を巻く」に使われているようだ。「頑固」という側面にもつながるから間違いとは言えない。しかし伝わるうちに一部分が強調されたのではないか。ネット検索ではこのサイトが詳しい。青森のゴボウ生産高1位が関連あるだろう。
 http://barber-hide.com/1144.html

聴きたかった学習論

2016年10月17日 | 雑記帳
 漫画家やくみつるの講演(トークショー形式)を聴きに行った。テレビ番組への出演も多いからだろうか、たくさんの人が集まった。稀代の「クイズ王・雑学王」らしく話題は確かに豊富。風刺の効いた漫画を見てもわかるように、視点のずらし方が独特だし、関連付けの巧みさもさすがだった。人気の高さがわかる。


 クイズ番組の裏側、外国へのツアー旅行の独特の楽しみ方、名を連ねている各種審議会等の内輪話など、生の口から伝えられる情報は面白おかしく、番組や話題に接するとき、また見方が広がる気がした。何より相撲への情熱は予想どおりで、興味深かった。長い間培われた文化や生態について関心が高く、また深い。



 「はやく詰め込んだことは忘れるのもはやい」といったニュアンスのことを話された。クイズ番組はあまり見ないが、常連と言われる方々の博学は、小さい頃から自らの興味、そして動きを伴いながら蓄積されるものだろう。「(答えが)降りてくる」という表現に重みを感じた。そのへんからぜひ学習論も聴きたかった。


 様々なコレクターとしても有名な講師、その興味への問いかけに対し「コレクター機関説」という点を持ち出したのは納得した。「機関」があることによって後世まで文化が伝えられる。公的に実施されなかったり、組織化されなかったりする内容の場合、コレクターの存在は実に貴重となる。そうか、志だなと思った。

自己責任は自業自得とは違う

2016年10月16日 | 読書
『この国の冷たさの正体』(和田秀樹  朝日新書)


 副題「一億総『自己責任』時代を生き抜く」が示すように、この著のキーワードは「自己責任」である。「自己責任」が言われ出したのは97年頃という記述があるが、印象深いのはやはり中東諸国での拉致問題だ。文中で指摘するように政府、マスコミの誘導は非常に大きく、言葉自体も独り歩きしているように思う。



 自己責任という言葉は今「自業自得」に等しい使い方をされているのではないか。もちろん以前からそういうニュアンスを含んでいることは否めない。しかし、その点の強調が他者を突き放すことになり、ほとんど攻撃の様相を呈している。「自己責任」を自分への言葉として使うか、他者へ向けるかは大きな違いだ。


 その点を踏まえながら、著者は精神科医らしく「どんな問題であれ、自分だけ苦しむ必要などない」と言い切る。そのためには、この「自己責任社会」のからくりに気づき、思い込みを捨てることだと強調している。そのヒントになる様々な情報が記されており、特に接する頻度が高いテレビの影響について言及している。


 「責任内在論」はわが師の教えの一つである。責任を外に求めず、まず自分が何を出来るか、を心に据えることだ。しかしそれは、もう一つ上のある意味で楽観的な人生観によって支えられてこそではないか。他者と共に生きるための思考習慣、行動原理をしっかり考えて拡げていくことで「温かさ」を取り戻したい。

いったい何を仕込んできたか

2016年10月15日 | 雑記帳
 先日、友人と久しぶりに行った馴染みの店で、マスターも交えて「自由人」といった話題になったとき、ある人のことを思い出した。もう十数年前になるが、教委研修でご自宅にお邪魔して話を聴いたことがあった。マスターもその方と顔見知りだったようで話が弾んだ。そう言えば、何か書いていたはずだと探してみた。



 「自由人は語る」と題した文章はなんと4回にわたって綴られていた。以前開設していたauブログで、今はもうないが幸いデータは残っていた。読み返してみると、現在の自分に必要なことばかりだなあと驚いてしまった。もはや手遅れとも思うが、もういっぺんという気持ちで一部をここに再録し、噛み締めよう。


・・・・・「自由人は語る その1」  2005/1/29 より一部抜粋

 70年代後半、この田舎に引っ越してきた時の、周囲の目は簡単に想像できる。
 傍目から見れば「変わり者」「物好き」という名でしか形容されなかったにちがいない。それは、Aさんを見送った都会の人たちも同様だったという。

 しかし、ここでモノ作りを始めようとするAさんには、強い意志はもちろんだが、実は戦略があった。
 会社勤めの傍らに身につけた革工芸の技術、そして当時の田舎の安い土地を買う資金、何より自分の作品を流通させるためのネットワーク…
 そしてそのネットワークを生かして、様々なイベントも行ってきたという。
 それが現在の地域おこしにつながっている例も多いと聞いた。
 Aさんがお話の冒頭で強調された言葉は

 仕込み

 今の自分の生活があるのは、技術や人脈などを綿密に仕込んできたからにほかならないと語った。
 自由を得るためには、仕込みが必要だ。
 自分のしたいことを実現しようとすれば、時代の流れを読む冷静な目と暮らしを成り立たせる周到さが用意されていなければならない。

  ・・・・・

「たかをくくる」楽しみ

2016年10月14日 | 雑記帳
 ビートたけしのCDアルバムを持っている。
 歌声が結構魅力的だなあと思って、ずいぶん前に買ったものだ。



 久しぶりにそれを取り出して流していたら、「たかをくくろうか」という曲があった。
 今まであまり意識はしなかったが、めったにない三拍子でメロディも心地よい。


 さて、何気なく耳にしている「たかをくくる」という慣用句、漢字で書くと「高を括る」となる。

 「高」とは、程度やゆきつくところを表している。
 「括る」は、まとめるが主だが、あらかじめはかる、予想するという意味も持っている。
 そこから、見くびるといったニュアンスになっているようだ。

 自分がはたして実際に使ったことがあるのかどうかは思い出せないが、そういった心持でいた場面は、何度となくあったろうなと思う。

 仕事を離れてみて、実際の生活上ではどうなのか。
 今まで体験、経験できなかったことに向かってみるとき、そういう感情、思考が湧くかもしれないし、なんとなく始めたり対したりして、その最中に感ずることができるのかもしれない。

 「たかを くくろうか」とぼかした言い回しは、先行きの出来事についての予想範囲を拡げていくことでもあるかもしれないと、ぼんやり思った。
 それは結構、楽しみなことでもある。


 件の歌の一番の詞は次の通り。

 雲のさけめから陽がさして
 小鳥たちが 空に散らばる
 きれいな歌が 聞きたいな
 世の中って こんなところだよ
 たかを くくろうか


 作詞は、なんと谷川俊太郎。
 作曲、編曲はこれまたなんと、坂本龍一。

 
 Youtubeにもありました。時間のある方はどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=Umn_3P87tkw

大きな非道徳的行為

2016年10月13日 | 読書
Volume24


 「『道徳』は政治家や官僚が治政のため身につけ、わきまえるべき、必須の政治的行動倫理であって、初等中等教育になじむような代物ではない」 


 私には求道者のように見える書家石川九楊が、「徳不弧(とくはこならず)」という志賀直哉の書について解説した文中にある一節だ。



 「初等中等教育になじむ」かどうかの判断はともかく、民衆に道徳を求める前に「政治的行動倫理」として優先されることは間違いないだろう。
 そうでなければ、政治によって進められる教育の内容など空疎なものでしか在り得ない。

 さらに言えば、その倫理さえしっかりしていれば、取り立てて、例えば「特別の教科」などと言わなくとも、浸透していくのが道徳ではないか。

 この国ではどうも本末転倒のような仕組みがなぜか働いて、何かうまく進まないわけを教育現場に押しつける傾向があるようだ。

 そのこと自体が、非道徳的行為ではないのか。

乱読の秋、自省を込める

2016年10月12日 | 読書
 『仙台ぐらし』(伊坂幸太郎 集英社文庫)を再読した。
 エッセイ集だが一篇だけ「ブックモビール」という短編小説が収められている。
 そのなかで、被災地を見に来た映画監督を案内し、その発言に腹を立てた「渡邊さん」が放った一言は強烈だ。

◆「光景を見に来るんじゃなくて、人の心を見に来いよ」

 震災の年から何度か、かの地に足を運んだ自分だったが、どうだったろうと胸に手を当てさせることばだ。



 昨年の夏に話題になった『大放言』(百田尚樹 新潮新書)を読んだ。
 いやいや、まあ言いたい放題である。同い年の売れっ子作家には、何も怖いものがないようだ。
 もっとだと思うことも、一方的ではないかと感ずることもある。ただ結局のところ批判、非難と反論に終始する形になるので、読んでいて気持ちのいいものではない。
 しかし、次の言に対しては賛成である。「言葉狩り」の社会を続けてはいけない。

◆放言を笑って聞くだけの度量のある社会にしようではないか。

 そういえば、某合衆国の大統領選挙なんかも関係ありそうだ。
 けして無視するわけではないが、「放言」以上に大事なことがあると感ずるのは私だけではないだろう。



 浅田次郎の短編集『夕映え天使』(新潮文庫)を楽しんだ。
 年齢の近い男性が主人公の設定が多く、なかなか染み入る物語ばかりだった。
 「丘の上の白い家」という話の中で、主人公の友人清田が、教師らに交際について指導され、言い放った言葉が強烈だ。

◆「価値観のちがいというのは、階級主義の受容だと思います。先生方も教育長も、妙な言いがかりをつける親も、もういっぺん戦争をして、もういっぺんこてんぱんに負けてください。」

 おそらく昭和30年代の設定と思うが、世の中あまり変わっていない気もする。
 災難に遭っても学ばない日本人が多いのか。自省を込めて。

「四つの目」を使いこなす

2016年10月11日 | 雑記帳
 連休中に放映された「NHKアーカイブス」は見応えがあった。ゲストの落語家春風亭昇太がお気に入りだったとして挙げた番組、一つは「つかこうへいのかけおち」という銀河ドラマ、そしてもう一つは科学番組「四つの目」。草下英明というキャスターが出てきて、ああこの人懐かしいなあと思わず叫んでしまった。


 「四つの目」とは、当時(60年代後半)の映像技術等を駆使した番組で、スタジオに子どもたちを呼び入れ、様々な事象をクイズ形式で予想させながら、映像を使って解説していく内容だった。科学には疎い自分だったが見続けていたのだと思う。四つの目とは、「肉眼」「時間の目」「拡大の目」「透視の目」だった。



 今思うと、この四つの目つまり観点は多くのことに共通するなあと、感心してしまった。「時間の目」とはつまり、スローモーションや早送りのことだ。事象を時系列で分析する、または俯瞰する。「拡大の目」とは部分を大きくすることで、空間的な点を緻密にみることだ。この二つで見える事についての照査ができる。



 「透視の目」とは科学的な技法と同時に、思考や想像という観点に結びつく。どういう仕組みか、何が原因か等を明らかにする。そして本当に大事なのは「肉眼」か。しっかりと事象を見つめることが出発点なのは違いない。きっと一流と呼ばれる方々は、その四つ「肉眼」「時間」「拡大」「透視」を使いこなしている。

両極をまず知る

2016年10月10日 | 読書
Volume23

 「たとえ4対6くらいが正解だと推測できても、ちょうどいい材料の配合を探るためには必ず9対1、1対9からやってみる。両極をまず知ることで、良しあしの感覚を体で確認する」



 日本屈指の左官技能士、挾土秀平が、土壁職人としての知恵を語る。



 こうした一見無駄とも思える作業の繰り返しによって、鍛えられる力は大きいように思う。
 そして、そこで培われる精神性にも注目しなければいけない。

 つまり、科学性をもつ本物の技能を身につけることと同時に、いわば芸術性と呼べるような一度きりの仕事に向かう姿勢を強くしていることだ。

 たとえば目の前の仕事に対して、もしこうしたら…反対にこうしたら、と両極に想像を巡らせる、可能な場合は試行するという段階を組み入れる。
 それがたとえ僅かであっても、その有無は大きな違いを生んでいくと思う。

フィクションの力を知る

2016年10月07日 | 読書
『人生を変えた時代小説傑作選』(山本一力、他  文春文庫)


 時代小説好きである作家山本一力、俳優児玉清、文芸評論家縄田一男の三氏が、それぞれ2編ずつ選んだアンソロジー。菊池寛に始まり池宮彰一郎までの全6編だった。時代小説は馴染みがなく、今までも数えられるほどしか読んでいない。短編の名作なら読めるかなと手に取ってみた。少し面白さがわかった気がする。



 敬遠していた理由は、言葉遣いや背景を理解する困難さ…まあ結局面倒くさがりなのかなあ。今回の小説にも難解な言葉があり、結構飛ばして読んだのが正直なところ。しかし、また現代を描いたものとは違う迫力、重みがあり、さすが手練れの読み手が推す作品だと思った。ただテーマに時代の違いは感じなかった。


 最初の菊池寛「入れ札」は、有名な国定忠治と子分たちとの別れの場面を描いているが、人間の心のみっともなさをつくづく感じさせてくれた。また山田風太郎の「笊ノ目~~」は幕末に奮闘する同心を描き、人生観、死生観が実に色濃く表れる展開に舌を巻いた。現代の出来事では設定できない持ち味を孕んでいる。


 読書家としてつとに著名だった児玉清が、巻末の鼎談でこんなことを述べている。

◆フィクションというものを知らないとほんとの現実は分からない。


 含蓄のある言葉だ。フィクションは作り物に違いないけれど、物事には裏があり、そのことが強い意味を持つと、現実以上に知らしめる、ということだろう。時代小説には、現代とはかけ離れた壁や枠が非常に多いけれど、だからこそ、想像し考えることは、知恵を養い、ある意味創造する力に結びつくかもしれない。